the Promise of Childhood
「俺に弟がいたなんて、すっげー嬉しい」
そう言って抱き締めた腕は僕と同じくらい細いのに、驚くほど温かく力強かった。
「ラウダ、よく聞いて」
ある日、母が僕を呼んだ。テーブルに向かい合って座る。僕と同じ色をした藍色の髪がさらりと揺れた。いつもなら仕事に行く時間だというのにどうしたんだろう。もしかして久しぶりに一緒にごはんでも食べられるのだろうか。
淡い期待など描かない方が幸せだということを幼い僕は今ひとつ理解していなかった。きちんと足を揃えて、手を膝に置いて。そうして顔を上げた僕に、その人は「良かったわね」と笑った。
「ヴィムがあなたを引き取るって言ってくれたの。明日には迎えが来るわ。持っていきたいものがあれば今のうちにまとめておきなさい」
着るものは向こうで何でも用意してくれると思うわ、と言って彼女は自分が使っていた鞄を寄越した。そこそこ大きな容量のあるそれを満たすほど僕の大切なものなんてない。数冊の気に入りの本と着なれた洋服。昔母親が買ってくれたくまのぬいぐるみ。――それもあの人の気まぐれでしかなかっただろうに、幼い僕は宝物のように思って毎晩抱いて眠っていた。一度取り出し、もう一度しまって、そうしているうちに目の奥が熱くなる。泣くな、泣くな。泣いたところで何も変わりはしないのだから。結局あのぬいぐるみは部屋に置いてきてしまった。
「ラウダ、家にはお前と同い年の息子がいてな。グエルというんだが元気なやつで……」
僕を迎えに来た「父さん」が隣で嬉しそうに話している。「グエル」って息子が可愛くて仕方ないんだろう。
僕はこの人と会ったことなんて片手で足りるしさっき会った時だって何の感慨も浮かばなかった。けれど僕はあの人と別れて――母親に捨てられ、そして今日からこの人の子どもになるのだ。
どうやら話を聞いていると僕の母だけでなくもう一人の母親からもこの人は見限られたらしい。悪い人ではなさそうだが、善き人でもきっとない。
元気でいたずら好きで勉強はあんまり好きじゃなくて、この人の喋っていることから予想する「兄」となる人は、僕の存在をどう思っているのだろう。知っていたとしたら憎まれてきたのだろうか。僕のことを初めて聞かされたのだとしたら驚いただろうか。どう考えてもポジティブな思考にはならなくて自然と顔が俯いていく。
「……俺の息子はとても優しいからな。二人で仲良くやってくれ」
ぽん、と頭に置かれた手は大きく温かいが、ただそれだけだ。振り払うこともできず、僕は車が到着するのをひたすら黙って待っていた。
「あれがグエルだ」
「父さん」に続いて車を降りる。示された方を見ると彼によく似た髪色の子どもが庭先に立っていた。僕を見定めにわざわざ外に出たのだろうか。つまらなそうな顔をしてこっちを見ている。二人で近くまで歩いていくと目を細めて少年が言った。
「――おまえがラウダか」
固い声。居丈高な態度。ああこれは、嫌われている。それはそうだ。自分と同じ年の子どもを父親が作っていたなんて、それが原因で母親を奪われたなんて。嫌って当然だ。笑顔で迎えられるなんて思ってなかったけれどこれから先どんな目にあうのか、考えただけで気が重くなる。
仲良くな。
そう言いたげに肩を叩いた父親は立ち上がり僕たちの様子を見守っているようだった。いい気なものだ。
彼が近付いてくる。俯いた僕に彼の表情は見えない。もしかしたら父親にバレないように何か言われるのだろうか。そうだとしても逃げる術はない。僕の帰る場所はもうここしかないのだから。どうしよう。手に、肩に力が入る。
「グエルだ」
ふわり、太陽に包まれたようだった。
頭を抱いた手の温もりがじわりと伝わってくる。
ぐっと抱き寄せられ、柔らかな声が優しく降り注いだ。
「俺に弟がいたなんて、すっげー嬉しい」
――ああ、この人は。
僕が考えていたちっぽけなことなんて微塵も思いつかないのだろう。両の手から伝わってくるのは紛れもない愛だ。からっぽの心が透明な何かで満たされていくようだった。
ずっとずっと欲しくて、でもきっと諦めていたもの。
モノクロの世界が急に色付いたように、無音の世界で鳥のさえずりを聞いたかのように、僕の世界が変わっていく。
目を閉じる。大丈夫、息ができる。
この手を伸ばしてもいいのだと、そう言われた気がして兄の服をそっと握り返す。
この人に、兄に、恥じない人間でありたい。ずっと隣で支えていきたい。
初めて湧き上がる感情に溺れそうになる。
「あ、あの」
「ん?」
少し距離を空けて覗き込まれる。煌めく蒼が光を反射して綺麗だ。
「これから、よろしくお願いします……グエル、さん」
「うーん」
そう言うと兄は難しい顔をして首を傾げてしまった。いきなりなれなれしかっただろうか。
「固いんだよなぁ」
「えっ……」
「父さん、俺の方が誕生日早いんだよね」
「ああ」
「じゃあ「兄さん」って呼んでくれ!」
な、ラウダ。簡単に僕の名を呼んでみせる。それだけで僕は自分の名前がとても価値あるものに思えた。自然と頬が緩む。
「おっ、笑った」
「うん、分かった。……兄さん」
「へへっ、なんかいいな」
笑うとさっきよりも幼く見える。僕も兄さんが笑うと心がぽかぽかした。兄さん、兄さん。心の中でも何回も呼んでみる。なぜかとてもしっくりきた。まるで初めから僕らの関係がそこにあったかのように。
僕が考えてる間に兄さんは父さんを見上げ何か相談していた。
「なあ父さん、ラウダに家の中案内してきてもいい?」
「ああ。みんなにも顔を見せてくるといい」
「分かった!」
行こ、ラウダ。そう言って兄さんが僕の手を取る。引かれるまま玄関をくぐると中も随分と広いようだった。
「まずはラウダの部屋に連れてってやる!」
手を繋いだままなのは迷子にならないためだろうか。そんなに幼いつもりもないけど、嫌なわけでもない。
「なあ、ラウダはどんなことが好きなんだ?」
歩きながら兄さんが聞いてくる。僕のことはあまり父さんから聞かされてなかったのかもしれない。
「えっと……読書、かな」
本を読んでいる間はその世界に夢中になれたから。誰かと一緒に過ごすよりもよほど気楽だ。けれど兄さんは「本かあ」と渋い顔をした。父さんが言ってたようにじっとしているのはあまり得意じゃないらしい。
「勉強も好きなのか?」
質問したその顔がさっきよりもっとひどい表情をしているから思わず吹き出してしまう。
「ううん、嫌いじゃない、かな。兄さんは好きじゃないの?」
「俺は勉強してるより父さんの会社でモビルスーツ見てる方が好きだな」
そうか。ジェターク・ヘビー・マシーナリーといえば頑強なモビルスーツで有名な企業だ。
兄さんの瞳がきらきらと輝きを増す。
「ラウダも今度一緒に連れてってもらうか?」
「うん。兄さんと一緒なら行きたい」
たいして興味もなかったモビルスーツだって、兄さんが教えてくれるなら最高に面白そうだ。
「兄さんはパイロットになりたいの?」
そう聞けば蒼い瞳が空を映したように輝く。
「うん! 父さんも凄腕のパイロットだったんだぞ。今は会社の仕事優先だからあんまり乗ってないけど、アーカイブの戦闘記録見たらきっとラウダもかっこよくてびっくりするから!」
兄さんの話を聞きたかったのにいつの間にか父さんの話になっている。でも兄さんがあまりに嬉しそうだからそのまま僕は黙って聞いた。
「今の目標はドミニコス隊に入ることなんだ。ケナンジ・アベリー隊長っていう父さんの次くらいにすごいパイロットがいて……なあ、俺ばっか話してるけど楽しいか?」
急に真顔になった兄さんは足を止めて僕を見た。
「うっ、うん! 楽しいよ!」
こんなふうに誰かと話すことも、夢を語る姿をかっこいいと思うことも今までなかったから。繋いだ手に力をこめて兄さんを見上げる。
「……おまえは?」
「え?」
「ラウダは何になりたいんだ?」
なりたいもの。やりたいこと。そんなの考えたことない。同級生があれこれ夢物語を語るのをどこか冷めた思いで見ていた自分はどうしたいんだろう。
黙り込んだ僕を心配そうに見つめながら、兄さんは「いきなりごめんな」と謝った。そんな必要ないのに、この人はどこまでも優しい。きっと僕の立場だとか今の状況だとか、色々考えてくれての言葉だと分かる。
こんなに優しくて騙されたりしないだろうか。勝手に心配になる。――そうか、それなら。
「……兄さん」
「うん?」
「兄さんがドミニコスのパイロットを目指すなら、僕がサポートするよ」
「えっ? 俺の夢じゃなくてラウダ、お前の夢の話だぞ」
「だから、それが僕の夢。兄さんの隣で、兄さんを支えていきたいんだ」
ぱちくりと大きな瞳が瞬く。本当にびっくりしたみたいに。
「――そっか」
そうか。分かった。
少し考えてから、そう言って兄さんは僕の頭を撫でた。微笑みの中にほんの少しの痛みを見つけて、もしかしたら困らせてしまったかもしれないと焦る。
「っぼく、今まで夢とかそういうの、全然、なくて」
「ラウダ?」
「でも、兄さんの夢はすごくかっこいいと思ったから、だから」
だから、本当に。お世辞とかじゃなくて。
たくさん本を読んできた筈なのに、引き出しから集めてくる言葉のどれもがしっくりこない。それでも兄さんを支えたいと思った気持ちに嘘はなくて、必死で言葉を重ねる僕の両手を兄さんが握った。視線が交差する。
「頼りにしてるぞ、ラウダ」
それは最高の贈り物だった。隣りに立つことを許された魔法の言葉。
「っ、うん!」
ぶんぶんと首を振って頷けば「もげるぞ」と笑う。そんな兄さんの笑顔が見られるだけで僕は幸せだった。繋いだ手を再び引かれ部屋へと案内される。車の中で感じていた不安はいつの間にか消えていた。
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