Conversation
大破したディランザからフェルシーの機体へ移り込む。涙目で「バカなんスかぁ」と睨む後輩にどんな顔をしたらよいか分からず戸惑っていると「間に合って良かったっスけどぉ」と更に泣かれてしまった。子犬のように後ろをついて回っていた彼女の面影に思わず笑ってしまう。
「何笑ってんスか!」
「……ありがとう。命の恩人だな」
それはグエルにとって心からの言葉であった。ずっと近くにいた彼女が気付かない筈もない。
「アイス、一ヶ月奢ってください」
「一生だって安いくらいだ」
まだそんな軽口を叩けることに今更驚きながら、二人はスレッタたちのいる艦へと向かった。
「兄さん……」
格納庫内へ降り立ったところで聞こえてきた声。
聞き間違えようもない、大切な弟の声はけれど震えていた。
隣に立つフェルシーは戸惑うような目で見上げる。大丈夫だというようにその背中を叩くと、グエルは軽く後輩の体を押した。無重力の中、フェルシーは地球寮の面々が集う方へと流されていく。
「っ、ちゃんと話してくださいよ!」
こんな時まで頼りになる後輩に、グエルは僅かに微笑んだ。
「ラウダ」
自分の名を呼ぶ声が、その主がまだ目の前にいる。
かつて自分の心を掬い上げたのと同じ優しさで、同じ声で、そこに在る。
たったそれだけのことがこんなにもラウダの胸を締め付ける。
「にい、さん」
よろりと踏み出した一歩が床を蹴り、時間をかけて兄の元へとラウダを運ぶ。乱れた髪が浮かび汗の粒が散る。叫びに嘆きに枯れた喉がひりついて痛い。けれど兄を喪う痛みに比べたらどうでも良かった。
「兄さん、にいさん」
伸ばした手をグエルが掴む。堪らずラウダはグエルを抱き締めていた。きつく、きつく。
パイロットスーツが潰れる間抜けな音も気にならない。腰に回した手をがっちりと掴んで思いきり抱き締めた。
「ラウダ、すまな」
「兄さんは!」
グエルの言葉を遮るように叫ぶ。
「兄さんは、ちがう、にいさん、僕が、ごめん、ごめん……ッ」
「ラウダ……」
ごめん、ごめんなさい、と譫言のように呟く弟を見つめる。重なるのはかつてのグエル自身だ。プラントクエタで父を殺してしまった過去の自分だった。
ラウダを抱こうとした両手を静かに引く。握り締めた掌に残る古い操縦桿の感触を、きっとグエルが忘れることはないだろう。そして今、彼の守りたかった存在が未だ在ることにグエルは安堵した。
「父さんを殺したのは俺だ。ラウダ、戻った時に伝えられなくて悪かった」
通信越しに聞いた時と様子の異なる声に、ラウダは急いで顔を上げた。そこにいるのはいつからか、ラウダがずっと見てきた兄だった。
またしても自分で完結させてしまうのか。悪いのは自分だけだと、弟は、ラウダは関係ないと。
傲慢なまでの高潔さが、大好きで大嫌いだった。堪らなく惹かれて、同じぐらい我慢ならなかった。どこからか冷静な自分が戻ってくるのを感じる。
(やっと……届いたと思ったのに)
「言い訳はしない。あの時シャディクの言ったことは事実だ。俺が、俺の手が、お前から父さんを奪った」
「……兄さんだって、兄さんだって父さんを喪って辛いはずじゃないか」
抱きついたまま絞り出すような声が言う。
あれほど父のことが大好きで、憧れて、だからこそ一つの綻びからおかしくなっていってしまった二人の関係をラウダは誰よりも知っている。
だが庇われて喜んではいけないのだと、グエルの内から声が響く。父殺しの罪を背負うのは自分の役目だ、生き延びたことの意味も考えなくてはいけない、と。
ラウダ、と。もう一度口を開きかけたところで、弟の視線がぶつかる。
「僕は、僕が、……僕が許せなかったのは兄さんが父さんを殺したことじゃない」
「ラウダ……?」
「それを僕に言わなかったこと、教えてくれなかったことだよ。言ったよね、支えたいって。兄さんのことを支えさせてほしいって。小さい頃は意味もよく分からず言ったけど、今なら分かる。僕は兄さんに守られたいんじゃない。兄さんの隣に立って、一緒に分かち合いたいんだ。辛いことも、嬉しいことも」
予想だにしなかったラウダの告白。グエルは言葉を挟めないまま続きを待つ。
「それに兄さんが悪人だっていうなら僕だって変わらない。あの時、兄さんが父さんを殺したって知った時。教えてもらえなかったショックが過ぎた後残ってたのは兄さんが生きていたことへの喜びだ。……父さんには悪いけど、兄さんも嫌だろうけど。僕は兄さんが生きててくれて良かったって、そう思ったんだよ。さっき兄さんは僕に嫌われるのが怖いって言ってたけど、そんなことは絶対にないんだ。僕がどれだけ兄さんを愛してると思ってるの」
舐めないでよ、と最後にそう付け足してラウダは兄を見つめた。琥珀色の中に焔が揺らめく。それは一筋の光となってグエルを射貫いた。
「……ぅに……」
「兄さん?」
「本当に、そう言えるか……? 俺が立場も何もかも失っても」
聞こえてきたのは柔らかく、折れてしまいそうな声だった。けれどラウダは知っている。これもグエル・ジェタークの一部分であることを。父親に命じられ、花婿になるため彼が葬り去った彼自身であることを。
今度こそ離さない。そう決めたのだ。
「兄さん、話して」
聞かせてほしい、分けてほしいと視線が言う。
グエルが話しやすいようにと一歩引きつつも、ゆらりと漂っていた兄の手を掴む。ラウダが触れた一瞬強張ったようにみえたが振りほどくことはない。
逡巡した後、グエルはゆっくりと口を開いた。
「スレッタに負けて、エラン・ケレスにも……負けて、父さんに寮を出るよう言われた時、俺はお前の顔が見られなかった。周りからは意地を張ってると思われただろうが、そんなんじゃない。ただ、……お前に呆れられるのが、情けない兄だと思われることが嫌で……いや、違うな」
首を振るグエルは、こんな時まで守りに入ろうとする自分自身を嗤った。プライドなんていうちっぽけなもののために、大切にすべきものをいくつ犠牲にしてきたのだろう。
ぽつぽつと言葉を選びながら話す兄の声をラウダはひとつも聞き漏らさないよう耳を傾ける。
「俺は怖かったんだ。ラウダ、お前に嫌われることも、兄として情けないと思われることも。父さんの期待に応えられず、かといって父さんの間違いを正そうともせず、それでいて逃げることしかできなかった俺が最後に父さんを殺したなんてどうして言える? 他の誰に責められたとしてもお前には……お前にだけは責められたくなかったんだ。俺にとって大切なつながりはもうお前だけで、昔から俺のことを慕ってくれたのに……。――やっぱり俺が父さんの代わりに」
「兄さん」
静かな声が皆まで言うなと制止する。スーツ越しにそっと重ねられた手からは、伝わる筈もないのに温度を感じた。
「兄さん」
もう一度、穏やかな声が言う。両手を取られ、正面から向かい合う。
「ありがとう、兄さん。話してくれて嬉しい。苦しかったことも、言い辛かったことも。話してくれてありがとう」
「…………」
「あのね、兄さん」
でも、と言い淀む兄を真っ直ぐに見つめる。言葉を尽くすことがどれほど難しいか、どれほど大切か、ラウダはようやく理解し始めていたから。伝えなければ伝わらない。そんな当たり前のことを今更知るなんて。でも間に合って良かったと、ラウダは心から思うのだ。
「兄さんが父さんの代わりになれば良かったなんて、僕はこれっぽっちも思ってない。父さんの死を悲しむことと、兄さんが生きていることを喜ぶことは僕にとって何の矛盾もしないんだ」
伝われ。伝わってくれ。祈るように重ねた手を握る。
「兄さんを殺しかけた僕を兄さんは恨んでる?」
「そんなわけないだろ……っ」
「うん。ないって分かってる。僕も冷静じゃなかったし、フェルシーがいてくれなかったらって思うと今でも気が気じゃなくなるよ」
「……ああ」
「でも、だからこそ思うんだ。父さんも同じだろうって。……今すぐ話してくれなくてもいいんだ。いつか……もしいつか、兄さんが話してもいい、聞いてほしいって思ったら、兄さんの荷物を僕にも分けてくれないかな」
「ラウダ……」
それに、とラウダは思う。
この兄は、弟からどれほど愛されているか知らないのだろう。
「それにね、僕は兄さんが格好悪くても情けなくても、面倒くさい時だって絶対に兄さんのことを嫌いにならない自信があるんだ」
「め、面倒くさい……?」
弟に面倒くさい奴だと思われていたことに僅かなショックを感じつつ、グエルは顔を上げる。
「だって、僕にとって初めて会った時から兄さんはヒーローで、誰よりも温かくて、それに」
煌めいた瞳に、グエルは遠い記憶を思い出す。木漏れ日の下で出逢ったあの日を。
抱き締めた小さな腕の中でか細く吐き出された安堵の呼吸を。
「誰の代わりもいない、僕だけの兄さんだから」
だから幻滅なんて絶対にしない。
そう言ってグエルを抱き締める腕は、記憶の中と違って力強く逞しいものだ。優しく回された手のひらが後頭部を撫でる。宙ぶらりんになっていた手をきゅっと握り締めてまた開く。
赦されるのだろうか。
赦されてもいいのだろうか。
グエルの苦悩ごと包み込むよう、ラウダの腕に力がこもる。
(――罰なら俺が独りで受けるから、今は。今だけは)
ずっとずっと広くなった背中に浮いていた手を添える。
不安げな指先が掴む僅かな感覚をラウダはとても愛おしいと思った。
コメントを残す