take a shine2

「お兄ちゃんのどこが好きなの?」
「んぐっ、」
イザベルの唐突な質問に危うく飲んでいたタピオカを喉に詰めるところだった。彼女は時折、何の前触れもなくマグナスを動揺させる。こんなところまで兄妹そろって似ているものなのか、とマグナスはこっそり感心していた。
アレクサンダーとマグナスが付き合い始めたということは早々に兄から聞いたらしい。二回目の占いに訪れたイザベルの第一声は「おめでとう!」で、あの時も油断していたマグナスを大いに動揺させたのだ。ちょうどその日最後の客だったこともあり、占いの後にお茶でもどうかというマグナスの誘いを彼女は断らなかった。嬉々として兄とのことを質問責めするイザベルに初めこそ戸惑っていたものの、アレクの昔の話や家では案外適当なところがあるのだと、本人には聞けない恋人の様子に身を乗り出して聞いてしまった。イザベルとサイモンの同棲生活もその後順調なようで、気付けば互いに惚気ていただけという、なんとも面映ゆい展開になったのだが。
そうして、占いから恋話に花が咲くのも今日で三回目だ。差し入れだとイザベルが買ってきてくれたタピオカミルクティー。流行りものには疎いマグナスだが気に入ったらしく、ぷよぷよした触感を味わう表情にうっかりイザベルは可愛い、と思ってしまった。つくづく、今まで兄が付き合ってきた人たちとは趣が違う。
「アレクサンダーの好きなところ……」
「うん。私もお兄ちゃんのことは大好きだけど、きっとマグナスから見たお兄ちゃんはまた違って見えるだろうから」
良かったら聞かせてほしいな。そう言って首を傾げる仕草は兄妹そろってそっくりだ。違いがあるとすれば、イザベルは無意識にしているのに対してアレクはその仕草が相手に好印象を与えると理解してやっていることか。
「んん、改めて言うのもなんだか恥ずかしいね」
はにかむマグナスにまたしても可愛い、とイザベルは笑みを深める。それから二人して恋人の好きなところを話し合っていれば、時間はあっという間に過ぎていった。

「それで、イジーには何て話したの?」
「ええと……」
昼は妹と、夜は兄と。今日はライトウッドの日だなんて思いながら食事をしていたら会話の端に目敏く気付いたアレクが訊いてきた。むぐ、と思わず口を噤む。
付き合ってから知ったことだが、アレクは料理が好きなようで、時間さえあればマグナスの家を訪れて手料理をふるまった。たいして調理器具も調味料もかったキッチンは今やアレクの持ち込んだ物が整然と置かれている。マグナスの趣味の一つである古今東西の茶を入れる道具だけは分けてしまってあるが、気付けばキッチンにはアレクが立つことがほとんどだ。時には一緒に料理をすることもあるが、アレクは自分の作った料理を恋人がおいしそうに食べるのを楽しんでいるようだった。
今夜は子羊のローストと付け合わせの温野菜、コンソメのスープに、マグナスお気に入りのパン屋のバケット。お手製のデザートは冷蔵庫の中で出番を待っている。
気持ちよく腹に収めていくマグナスを見つめるアレクの視線は甘い。うっかり見てしまった瞳にマグナスは顔を赤くしながら沈黙を追い払うように話し始めた。今日の天気だとか、依頼人がいつもより少し多かったこととか、イザベルの話だとか。
「イジーは今日も来たのか」
「サイモンのことは心配いらないと思うよ。すごく楽しそうだ」
まるで自分のことのように嬉しそうに話すマグナスを可愛いと思う。だが、ほんの少しアレクの表情は曇る。
「アレクサンダー?」
「随分イジーと仲が良いんだなと、思って……ああごめん、忘れて」
片手で顔を覆うアレクをマグナスはじっと見つめる。
「……」
「マグナス?」
「あ、ああ、うん……」
気を悪くしないでほしいんだけど、と前置きして、そろそろと口を開く。
「いま君のこと、可愛いって思って……」
「可愛い?」
「あっ、でも、違うんだ。いつもの君はかっこよくて、それこそ惚れ惚れするぐらい、でも今日イザベルに聞いた君の姿が重なってなんだか可愛いなって、……ごめん、全然説明になってない」
「大丈夫だよ。それで、イジーとはどんな話をしたの?」
肩を落としてうなだれるマグナスに、アレクは笑顔を浮かべて続きを促す。
「今日は君のことを話してたんだ」
「俺のこと?」
「うん。イザベルが昔の君のことを教えてくれてね」
「昔……」
「兄妹仲が良かったんだね。イザベルが転んだ時におんぶして連れて帰ってあげたんだって?」
「うーん……多分……」
「多分なのかい?」
「昔のことすぎて覚えていないよ」
「君にとっては当たり前のことだったのかもしれないな。彼女がとても嬉しそうに色々話してくれるから、アレクサンダーのことが好きなんだねって言ったら、「お兄ちゃんのどこが好きなの?」って、聞かれて……」
ふと、マグナスの声が小さくなる。
(もしかしてすごく恥ずかしいことを話してないか!?)
気付いてしまった事実にそろりと顔を上げると、きらきらした笑顔があった。思わず、う、と押し黙ってしまう。
「それで、イジーには何て話したの?」
「ええと……」
言わなければ、ダメだろうか。
そっとアレクの顔を伺う。ばちりと目が合ってしまった。躊躇するマグナスに、アレクは眉を下げて小首を傾げる。
「俺に話すのはイヤ……?」
ああ、本当にこの兄妹は似ている。こんなふうに言われると私が断れないことを二人とも知っているかのようだ。
「月並みかもしれないけれど…」
そう前置きをしてマグナスは話し始めた。
「君が覚えてるかはわからないけど、初めて会った時に困っていた私を助けてくれただろう」
「忘れるわけない。あの時、運命の瞬間があるって思ったんだから」
「う……ん、そう。その時に、優しいなって思って……」
「そう」
嬉しいな、と応えながらアレクはその時を思い出す。一目見た瞬間に欲しいと思った。困っているようだったから助け舟を出せばこちらを見てくれるだろう、そんな下心があったことはあえて言わないが。一晩楽しめればいい、そんな考えで過ごしていたけれど、あれは運命の人に出会っていなかったからだと今ではわかる。
「それに、イザベルと話していても、君が妹や弟のことをすごく可愛がってるのが伝わってきたよ。家族を大事にできる人は素敵だと思う」
「……」
「アレクサンダー?」
「……うん、ありがとう」
あまりに真っ直ぐに言うものだから。思わず顔が赤くなりそうになるのを片手で隠す。マグナスは「そう?」と首を傾げて、「あとは…」と言いかけたところで視線を泳がせた。見る間に頬に朱が昇っていく。
「マグナス?」
「……ええと、何かと私の身体を気遣ってくれるところも、」
「好き?」
「んん、……うん」
すきだ、と小さく呟く。マグナスが思い出している光景を想像して、アレクは思わずにやけそうになる顔を整えた。それから少し聞いてみたくて質問を重ねる。
「俺とするのも好き?」
「えっ……」
何を、と言わずとも会話の流れから対象は一つしかない。真っ赤な顔も、潤んだ瞳も、答えは一つだと物語っている。マグナスを困らせたいという気持ちと、困らせたくないという正反対の感情がわいてくる。これは後でぐずぐずになっている時にもう一度聞いてみようかと思っているところへ、アレクの袖を掴む指先があった。桜色の爪が綺麗だと訳もなく思う。
「……君、と、するのは、すき、だけど…」
「だけど?」
「…………」
「マグナス?」
嫌なら言わなくても、そう言おうとしたアレクの言葉をマグナスが遮る。
「きもちよすぎてこまる……とき、が、ある」
「――っ」
思わず頭を抱えたくなる衝動を抑えて、アレクは目の前の恋人をじっと見つめた。先程までおいしいおいしいと食事を楽しんでいた無邪気さは消え、そっとアレクを窺い見る瞳には欲が浮かんでいる。いつもセックスに誘うのはアレクばかりだとマグナスは思っているかもしれないが、彼自身、無意識のうちにこうして誘ってくるのだから堪らない。幸いここはマグナスの部屋で、仕事も友人たちも二人の邪魔をする者は誰もいない。デザートはどうしようか聞こうとも思っていたが、冷蔵庫に入っているなら明日でも大丈夫だろうと算段をつける。
「マグナス、しようか」
「……シャワー浴びてくる」
「わかった。一緒に入る?」
「っ、今日、は、一人で」
「了解。行ってらっしゃい」
キスをして送り出そうかとも思ったが、そのまま雪崩れ込むのが目に見えて押し止まる。マグナスがバスルームに入るのを見届けて、アレクは先に食器を片づけておこうかと椅子にかけてあったエプロンを手に取った。

ぐちゅ、と音を立てて透明な液体が押し出された。内腿を伝う感覚に悲鳴を上げるが、マグナスの胎内は待ち望んだ質量に悦び内壁が絡みついていく。受け入れたアレクの形を覚えて余すところなく吸いつく感触は身体を重ねる度に二人の快感を呼び起こした。
「んん……っ、アレク、アレク……!」
「う……マグナス、……」
開いた両脚をアレクの背に回す。向かい合ったアレクが唇を落とせば舌を伸ばしてマグナスはキスを強請った。ほんの少し届かない場所で眺めていると潤んだ瞳がぱちぱちと瞬く。その拍子に涙が一粒頬から耳へと流れていった。
「きす、アレクサンダー、」
「ん?」
「きすしたい、きす……」
おねがい、と首の後ろに回った手が引き寄せる力は存外強い。引き寄せられるまま顔を落としたアレクの唇にマグナスが吸いつく。厚い下唇を噛んだのは焦らされたお返しだろうか。軽い痛みはけれど心地良くてアレクを興奮させる。
唇を塞ぐように覆い被さったアレクを、マグナスは両腕で抱き締めた。じゅる、と唾液の絡む音が聴覚を刺激する。どちらのものかわからなくなった唾液を飲み込みながら、マグナスは踵に力を込めた。
「んっ、ふ、……ぐ、ぅ……!」
「――ッ、マグナス……!」
ぐっとアレクの腰を誘い込む。自分の腰も押し付けるように上げると奥を抉られてくぐもった悲鳴が漏れた。離れた唇の間を透明な筋が繋ぐ。息を荒げて見下ろすアレクからは余裕が薄れている。
マグナスはそんなアレクの瞳を見るのが好きだった。彼に伝えていない好きなところの一つだ。いつもは澄んだ色をしたヘーゼルが欲を湛えてぎらぎらと揺れている。
――彼に求められている、そう思えるから。
「あれくさんだー、もっと、おくに、」
きて、と言葉にすることはできなかった。
「っ、は、ああああああ!」
「……君、は、わかって、煽ってる、だろ…っ」
「あっ、ひ、ぃあ、や、あ!」
大きく腰をグラインドされてマグナスは悲鳴を上げた。長大なペニスが奥を突いては引き抜かれ、またずりずりと内壁を擦りながら入ってくる。
出ていこうとするそれを必死で引き止めようと襞が絡みつくと目の前がちかちかするほどの快感がマグナスを襲った。自慰では決して得られない快感だ。
「あ、あっ、あれく、だめ、は、あ……!」
「ダメ? こんなに気持ちいいって悦んでるのに?」
マグナスの腹をぺちぺちと叩く彼のペニスを大きな手が包む。そのまま上下に扱かれてマグナスは高く啼いた。
「ひゃあ! だめ、さわっちゃ、だめぇ……」
頭を左右に振るが、アレクを抱き寄せる腕も脚も力が入ったままだ。アレクの手に押し付けるように腰もがくがくと震えている。手の中のペニスが震える。
絶頂が近いことを知って、アレクは先端から溢れている先走りを穴の周囲に塗り込めた。くりくりと円を描くように指先を動かせばマグナスの悲鳴は更に大きくなる。
「ひぃ、ん、うぅ……っあ、あ! だめだって、いって……!」
「本当に? 触っちゃダメ?」
「え……あ、あっ……!」
そう言ってアレクが手を離そうとするとマグナスは目を見開いた。今度は自分で擦りつけられないように手のひらを広げたまま、その場で止まっている。
まさか。こんな状態で。
本当に止められると思っていなかったのか、マグナスはアレクを見つめたまま何も言えずにいた。彼のペニスだけが刺激を求めてひくひくと震えている。
「君が本当に嫌なことはしたくないから」
だから、とマグナスの耳元に唇を寄せる。
「どうしてほしいか、教えて。マグナス」
「っ、ん……!」
挿入したままアレクの切っ先が奥をノックする。ペニスには触れないまま、滑らかな腹を手のひらがゆっくりと撫で下りていく感覚に、ぞわりとマグナスの肌が粟立った。このまま後ろだけでしても気持ちよくなれることはもう知っている。けれど。でも。
「アレクサンダー……」
「うん」
「……だめじゃない、から」
笑顔で続きを促すアレクの蟀谷から顎の先へ汗が伝うのを見て、舐めたらどんな味がするのだろう、と、マグナスはぼんやりした頭で思う。
「さわって、きもちよく、して」
「……うん」
羞恥と期待に潤む瞳を覗き込む。暗くした室内灯の灯りを映し込んだそこが煌めくのを見つめながら、アレクは恋人の望むものを与えようと手を動かした。
「ふあっ、あっ、あ、あれく、」
ペニスを扱く動きと奥を突く動きとを合わせる。両方を同時に刺激されてマグナスは大きく喉を反らして喘いだ。浮いた喉仏がやけに美味しそうに見えて、やわく噛みつく。
「――ッ!?」
びくびくと身を震わせたマグナスは声にならない悲鳴を上げるが、アレクは動きを止めることなくマグナスを追い詰める。足の爪先をぎゅっと丸めたマグナスはしがみつくようにアレクを抱きしめた。
今度は焦らすことなく扱いていたペニスがぴゅっと白い液体を吐き出す。と、緩くアレクを包み込んでいたマグナスの裡側もきつく収縮した。柔らかな内壁がアレクのものをきつく搾るように蠢く。つられるように一際強く奥を抉ればマグナスの腹の上でくたりとしたペニスから二度三度と液体が吐き出された。
「――っん、マグナス……?」
息も荒いままにマグナスは両手でアレクの腰を掴んだ。ぐっと引き寄せられてアレクは低く呻く。身体を起こそうとしても腰に回った両脚がそれを許さない。
「……あれく、きみ、まだイってないだろ…?」
マグナスの言葉に息を呑む。
「おく、に」
ちょうだい、と。舌足らずに誘われて我慢できるはずもなかった。ずちゅ、と腰を打ち付けた弾みに繋がっている縁からローションが押し出される。何度も掻き回されて白く泡立つそれは精液にも似ていた。
遠慮なく腰を打ち付けられて宙に浮いたマグナスの脚がぶらぶらと揺れる。けれど硬度を増したペニスが胎の内側をごりごりと抉るうち、膨らんだ箇所を擦り上げた。マグナスの指が引き攣るように広がる。
「あああっ、ひゃ、あ、あ……!」
「マグナス…っ、マグナス、――ッ!」
どくん、と胎内で脈打つペニスを感じながらマグナスは精を吐き出さないまま達していた。どぷどぷと溢れる白濁が僅かな隙間もないようにナカを埋めていく。
マグナスは満足気に息を吐きながら、降りてきた唇を受け止めた。

『今日は俺の家に来ない?』
机上で着信を告げた端末を開けば、アレクからのテキストが届いていた。
デートをするのは外に出ることが多いし、夜はホテルかマグナスの部屋で過ごすことがほとんどだった。
一度も訪れたことのないアレクの部屋。わずかに待って、マグナスは承諾の返事を送信した。
誘いを受けて訪れた部屋はマグナスの住まいとは雰囲気を異にしていた。モノトーンの家具を基調にシンプルなデザインで統一された室内はアレクの怜悧な印象にぴたりと当てはまる。少なくともマグナスはそう思っていた。
ほわ、と口を開けたまま室内を眺めるマグナスにアレクはくすりと笑うと「他の部屋も見る?」と声をかけた。頷くマグナスの腰を抱いて一通り室内を探検していく。
「ここはゲストルーム。いつでも泊まりに来てほしいな」
「いつでも?」
「うん。ああ、でも寝るのはこっちの部屋になるかも」
「こっち?」
「俺の寝室」
「――ッ!」
「ごめん、冗談」
あっさり逃げ道を用意してくれるアレクに安堵しつつも、マグナスはぼそりと呟く。
「……冗談じゃなくてもいいのに」
「マグナス?」
「っ、なんでもない」
聞こえてはいたが指摘することなく「そう?」と知らないふりをする。クローゼット、バスルーム、仕事の資料を置いてある部屋と一通り見て回ると二人はリビングへと戻ってきた。カウンター型のキッチンにはマグナスの部屋でも見るようになった調味料や見たことのない用具が整然と置かれている。料理が好きだというアレクの腕前は、趣味というには勿体ないほどだ。その恩恵をマグナスは何度も受けている。部屋に入った時から漂っていた空腹を刺激する匂いに、マグナスはふと視線をキッチンの方に向けた。気付いたアレクが「お腹空いた?」と笑う。
「そこに座ってて、今持ってくるから」
「何か手伝うことは…」
「待っててくれたら嬉しい」
俺がしたいことをしてるだけだから、と微笑まれては黙って座るしかない。
時々、今のようにアレクにもてなされたりエスコートされたりすることにむずがゆさを感じることもあるが、「ありがとう」と好意を受け取った時の嬉しそうな顔を思うとそれも悪くないかと思えるのだから不思議だ。
父は自由人で思い立った時にマグナスの元を訪れては本人のしたいように愛情を注いでいくし、数少ない友人には、どちらかといえばマグナスが何かを与えることの方が多かったから。
お待たせ、とアレクが木のプレートに乗せてきたものを見て、マグナスは目を円くした。
「ピザ?」
「うん。焼いてみたんだ」
「家で焼けるの……」
「オーブンがあればわりと簡単だよ」
隣に座ったアレクから「今度一緒に作ってみる?」と聞かれてはちりと瞬いた。アレクの言葉があまりに自然だったから。
「? 何か変なこと言った?」
「違う、けど、……付き合ってるんだなあって思って」
「――マグナス」
ふわりと笑うマグナスの名を呼ぶ。何? とふり向いた唇にちゅっと触れるだけのキスをすれば、予想通り、マグナスは顔を赤くして驚いた。
「な、に」
「君が可愛くて」
嫌だった? とは聞かない。照れてはいるけれど、嫌がってはいないのをアレクは理解している。ちらりと横目で見上げてくる表情は二回目があるかを窺っているから。期待に応えなくてはともう一度キスをすれば離れた隙間を埋めるようにマグナスも唇を押し付けてきた。
「……可愛くなんて」
唇を離した後にぽそりと呟いた言葉を聞き逃しはしない。ピザの乗ったボードをローテーブルに置くと、アレクはマグナスの方へ向き直った。ソファの背もたれに身体を預けて少しばかり視線を下げる。
「可愛い。さっきみたいに、照れるけど自分からキスしてくれるところも」
「……っ、アレクサンダー」
ゆっくりと持ち上げた手で、つるりとした頬を撫でる。アレクも肌の手入れには気をつけているが、マグナスはそもそも体毛が薄いのだと言っていた。親指の腹で撫でるとマグナスは気持ち良さそうに目を瞑る。
(ニャン議長みたいだ)
彼もアレクが喉を撫でてやると目を瞑ってうっとりとしている。初めの頃は触れるだけで固くなっていたことを思い出すと、こうして安心して身を任せてくれるのがたまらなく嬉しい。
「それに君は綺麗だ」
「綺麗……?」
きれい、と確かめるように口にして、マグナスは突然ふふっと笑った。また照れるのかと思っていたアレクは予想外の反応に手を止める。
マグナスは、自分の手を伸ばしてアレクの頬に触れた。しっとりと馴染む肌が気持ちいい。
「綺麗というのは、君のためにある言葉じゃないかな」
「俺?」
「自覚がなかった? 君と歩いていると大勢の人が君をふり返っているのに」
自覚はあるが、気にしてないだけだ。けれど伝える必要もないことだから黙ったまま首を傾げてみせる。
「君のことだから理解してるんだろうけど」
――お見通しらしい。
「君は、俺のことを綺麗だって思うの」
「うん。特に、陽の光を反射した時、君の目って宝石みたいに輝くんだ」
目を細めて見つめるマグナスは、まるでアレクの瞳が眩しいかのようだ。
これまでにも多くの人に美しいと言われてきたが、アレクにとって、マグナスの言葉が何よりの喜びだった。
彼が綺麗だという瞳を閉じることなく顔を近付ける。先を予想して目を閉じたマグナスにそっと口付ける。触れて、一度離れて、ふくりと柔らかな薄桃を唇で食む。舌先で唇の合間を擽るようにすればマグナスはくちをあけてアレクの舌を受け入れた。体温を分け合うような接触が心地いい。
すぐには舌を絡ませずにまた一度離れた。マグナスの舌が追いかけるように伸ばされる。粘膜を口先に含んで軽く引っ張ると笑い声が漏れた。マグナスもソファに身体を預けアレクを受け入れている。くしゃりと髪を撫でられる。いとおしい、と、わきあがる言葉を口にする。
「愛してる。マグナス……」
「アレクサンダー……わたしも、」
あいしている、と。
続くはずだった言葉は唐突に途切れた。
「――ッ!!」
「っ、マグナス?」
強い力で肩を押される。
突き放されたアレクは呆然と目の前の恋人を見た。
先程までうっとりと自分を見つめていた瞳はぎゅっと、痛みが出そうなほどきつく瞑られている。すぐにマグナスが片手で目元を覆ってしまったから様子もわからず、突然の拒絶にアレクはそっとマグナスの肩に触れようとした。
「っごめん、」
その手から逃れるようにマグナスが身を引く。驚いたアレクはそのまま立ち上がったマグナスを呆気にとられたまま見上げた。変わらず顔の上半分は手で隠したままだ。
「マグナス、具合でも悪いのか?」
「そうじゃな、……いや、うん、ちょっと頭痛がして」
「それなら病院に」
立ち上がったアレクが顔色を見ようとするのを避けるようにマグナスは顔を背けた。ほとんど周りを見ないままソファの後ろに回る。
「大丈夫、だから。でもごめん、今日は帰るよ」
本当にごめん、そう言ってマグナスは逃げるようにその場から立ち去ってしまった。後に残されたアレクは呆然と立ち尽くすしかできず、二人で食べるはずだった料理もいつの間にか冷めていた。
それだけではない。この日からアレクはマグナスに会うこともできなくなったのだ。電話やテキストの返事はなく、家を訪れても反応はない。占いをする部屋を訪ねてもみたが、しばらく休業すると告げるプレートがかかっているのみ。手がかりのなさに初めてアレクは焦りを感じていた。

「やあマグナス、愛しい息子。シュガーボーイ。君から来てくれるなんて嬉しいね。その後アレクサンダーとはうまくいってるかい?」
「父上、どういうことですか!?」
扉を開けるなり抱き締めて出迎えようとするアスモデウスの腕から逃れると、マグナスは開口一番そう言った。焦った様子の息子にアスモデウスははてと首を傾げる。先日会った時には恋人ができたのだと幸せそうにしていたのに、何を慌てているのだろうかと。
「マグナス。どういうことかと聞かれても、何についてかわからない」
まずは落ち着いてお茶でも、というアスモデウスの腕を掴む。常にはない様子にアスモデウスは改めて「座りなさい」と椅子を勧めた。父の真面目な顔にマグナスも息を吐く。
椅子に腰掛けると、アスモデウスは向かいに座り手首を翻した。程なくして二杯のカップがトレイに乗って浮遊してくると、アスモデウスはマグナスの前にそのうちの一つを置いた。
「カモミールだ。落ち着くから飲みなさい。話はそれから聞くよ」
「……ありがとうございます」
動揺している自覚はあったから、黄金色の液体をひとくち、ふたくちと口に含む。爽やかな香りが混乱している頭を少し晴らしてくれるようだった。
「それで、アレクサンダーと何があったんだい」
「彼とのことだと」
「何故わかったかって? これでも君の父親を数百年やってないからね。君が取り乱すとしたら原因は君の猫たちとアレクサンダーくらいだろう?」
「……アレクサンダーと何かあったわけではないんです」
「ふむ」
「ですが、今日彼と一緒にいたら急に眼の奥が痛くなって」
「眼が?」
「はい。……遠い昔に経験した痛みです」
「それは、」
マグナスの悩みに思い至ったのか、アスモデウスは一度言葉を止めた。指を組み、マグナスを見つめる。
その瞳は、先程までの黒曜石を思わせる色ではなく、黄金に煌めいていた。瞳の中心を暗い線が縦に走っている。
「これのことか」
「――はい」
今は普段通りのダークブラウンに戻っているが、アレクの部屋から自宅へ戻ったマグナスが鏡を見るとそこに映っているのはアスモデウス同様金色に輝く双眸だった。まるで猫を思わせるその瞳は二人が悪魔の血を持つ証左でもある。
マグナスがまだ幼かった頃にも一度発現したそれに、アスモデウスはひどく喜んだ。けれど発現時に痛みが出ること、そして見慣れぬ姿にマグナスが恐れる様子を見て、最愛の息子のために封印することを選んだのも父自身だった。
「あの時、父上が封印してくださってから今までずっと発現しなかったのです。それなのに何故今になって……」
「――……」
「父上?」
己を見つめたまま黙り込む父に、マグナスは不安げな表情を浮かべる。
「マグナス……私の勘違いでなければだが」
「何ですか……?」
「魔力が戻っているのでは?」
「っ、わかるのですか?」
「初めからわかっていたわけではないよ」
首を振って答えるアスモデウスは、「けれど」と続ける。
「先日君の家を訪れた時に、わずかだが魔術の残り香のようなものを感じてね。今までには感じたことのない気配だった。そして今のお前の話だ。魔力が戻ったのはいつ?」
「数か月前です。異世界から来たのだという少女が持っていた宝石に触れて、体の中で眠っていたものが呼び起こされたんだと思います。まだうまくは扱えませんが……」
ぱちん、と指を鳴らすと目の前のカップに新たなハーブティーがなみなみと湧いてきた。アスモデウスがわずかに目を見開く。
「私よりも今のお前がもつ魔力の方が大きいのだろうな。私にできるのは精々物を少し移動させるくらいだ」
このカップのように、と目の前のカップを浮かせてみせる。マグナスはソーサーを浮かせると二つをそっと父の手元へと動かした。
「となると、答えは一つだろう」
「……魔力が戻ったから、ですか」
「そうだな。私よりも強い魔力をもったことで封印も解けてしまったと考えるのが早い。すぐに発現しなかったことは不思議だが……。ああ、しかし原因は魔力そのものだろうが起因は違うと思うぞ」
「起因?」
「魔術師の眼が発現するトリガー、とでも言えばいいか。マグナス、お前にとってのトリガーは感情の作用だ。怒り、悲しみ、感動、喜び……何某かの大きな感情の揺れがあればその瞳は姿を現す。勿論、愛もその一つだ」
「……そんな」
椅子に背を預けたマグナスの身体から力が抜ける。その様子を疑問に思ったのか、アスモデウスは口を開いた。
「何を困ることがある? 魔術師の力を取り戻したなら自在に使えばいい。便利なものじゃないか」
「問題はそこではありません」
視線を落とし力なく言うマグナスにアスモデウスは何が問題なのかという表情を浮かべる。
「怖いんです。アレクサンダーがこの眼を見たらどう思うのか考えると……」
あの時、もしもアレクに見られていたら。彼の美しい顔が恐怖に歪み、触れようとした手を引いたなら。どうしても悪い方にばかり考えてしまう。
「彼の目玉を抉ればいい。見えなければ何も思わないだろう」
「父上!」
さらりと言ってのけるアスモデウスにマグナスは弾かれるように顔を上げた。まさか、という恐怖を浮かべる息子にアスモデウスは笑顔を向ける。
「……冗談だ」
(この人が言うと冗談に聞こえないし、多分本気だ……)
「それに彼がお前を拒絶するのなら別れればいい。お前が傷つけられるようなことがあれば私がなんとかしてあげよう」
笑顔のまま告げるアスモデウスは本気で息子のことを心配しているのだろう。マグナスが傷つくことも、傷つけられることも許さない。それは彼が幼い頃から密かに徹底されていたことだ。長く生きてきたために今ではアスモデウスの言葉の裏を理解している。このままでは本当に彼が何かしらの手を下すのではとマグナスは慌てて表情を取り繕った。
「――これは私の問題です、父上」
「だが、」
「手出しは一切、しないでください。私は父上を嫌いになりたくありません」
「……いつの間にか、脅すのが上手くなったなあ」
そんなことに感心しないでほしい、と思うが伝えることはしない。
帰ります、と席を立つマグナスをアスモデウスが呼び止めた。振り返ったマグナスをすっぽりと包み込むように抱き締める。
「何があったとしても、お前が愛しい息子であることに変わりはないよ。それだけは覚えていてくれ。マグナス」
「……ありがとうございます」
アレクとのことを考えると不安は少しも減らないが、アスモデウスの言葉に嘘はない。温かな抱擁を受け止めて、マグナスは再び自宅へと戻ることにした。
途中何度か端末が震えていたが確認する気になれず、家に着くと電源を落としてしまった。

自宅の電話が鳴り響く音に、マグナスの意識は無理矢理覚醒を促された。伸ばした手の先に端末はない。そう言えばしばらく電源を切っているんだったと思い出す。そうしている間もベルの音が鳴りやむことはない。仕方なしにベッドから降りると、マグナスは裸足のままラグの上を歩いていった。
「……もしもし」
「ちょっと、なんでテキスト無視するのよ。昨日も一昨日も返事ないし、電話は通じないし」
「カミール……?」
「親友の声を忘れたの?」
「そんなことはないよ。どうしたの」
「どうしたもこうしたも、おじ様からあなたが凹んでるって聞いたから連絡したのよ。何があったの? 失恋?」
「失礼な……まだしてないよ」
「まだ!?」
途端にテンションの上がった声にマグナスは溜息を吐いた。これはちょっとやそっとでは納得しないだろう。
案の定、電話口から「今からそっちに向かうね」と聞こえてきた。父といい、友人といい、マグナスの周りにはどうにも人の都合を気にしない者ばかりが集まる。
足下にごはんを求めてニャン議長がまとわりついてくる。後ろでチャーチも喉を鳴らしているからすぐに来られては準備もできない。せめて、とマグナスは口を開いた。
「一時間後にしてくれないか」
「いいわよ。あなたの好きなケーキ買っていくから、ゆっくり話聞かせて」
じゃあね、と切れた電話を台に置く。猫たちの朝食と自分の朝食を用意して、着替えて、カミールが来るなら彼女の好きなお茶を用意してあげようかと考えればのんびりしている暇はなかった。

ちょうど一時間が経とうとした頃。再び鳴り響いた電話を取るとカミールの困ったような声が聞こえてきた。
「ねえマグナス、あなた引っ越したの? 全然家が見つからないんだけど」
「あ、」
「マグナス?」
カミールの言葉に思い出す。アスモデウスの元を訪れてから、金の眼を封印する方法が見つかるまではアレクが家に来ても見つからないように見よう見まねで結界を張っていたことを。
「ごめん、ちょっと待ってて」
手のひらを外に向けて大きく腕を回す。空間が揺らぐ気配がすると、電話の向こうで「見つけた。どうなってるの?」とカミールの声が聞こえた。
「いらっしゃい」
「はいこれ、四つ買ってきたから好きなの選んで」
「ありがとう。お茶を入れるから…」
「ねえマグナス、どういうこと? さっきの何? あとあなたが失恋しそうな相手って誰?」
「……カミール、座ってから話そう」
苦笑するマグナスにはっとして、カミールはいそいそと室内へ入った。窓辺に置かれた一人掛けのソファに腰を下ろす。
マグナスは受け取ったケーキを二つずつ皿に並べるとそれぞれの前に出した。
どれもマグナスが好きなもので、彼女なりに友人を心配して来てくれたのだとわかる。準備していたポットに熱湯を注ぐとカップと共にテーブルへと置いた。アールグレイの香りがふわりと立ち込める。
「何から話したらいいかな…」
膝の上で手を組むマグナスに、カミールが視線を向ける。
「まずは家のことから教えて。気になって仕方ないじゃない」
「ううん…」
結界のことを話すにはその前から話し始めなくてはならない。マグナスは手のひらを広げるとカミールの目の前に差し出した。
「何?」
「いいから、見てて」
ぱちん。指を弾き、広げた手のひらにニャン議長の姿が浮かぶ。
「えっ?」
ぱちん。もう一度指を弾くと、今度はチャーチの姿が。
「何、どういうこと」
目を瞬かせるカミールの前で、手のひらの上に青白い炎を浮かべた。指先に集めたそれをテーブルに置かれたソーサーへ向ける。すうっと浮いたソーサーがカミールの手に収まると、彼女はほう、と息を吐いた。
「……魔法?」
「私たちが悪魔の血を引いているというのは知っているだろう?」
「それは知ってるけど、悪魔は随分昔に淘汰されたし、私たちだって普通の人と同じように暮らしてるわ」
「君も血を飲んでるわけじゃない」
「やだ、気持ち悪いこと言わないでよ」
「だけど、この身体を流れる血は確かにダウンワールダーのものなんだ。少し前に魔力を取り戻す機会があって、その力で家の周りにも普通の人からは見えないように結界を張っていた。家を消すわけじゃなくて、周りの景色に溶け込んでいるから見えてるのに見えないようになる感じだけど」
「だから変な感じだったのね……」
うん、と頷くカミールにマグナスは恐々尋ねた。
「……怖くない?」
「何が?」
「私が、今までと違う力を持っているなんて」
「怖い? あなたが?」
きょとんとした顔をして、次の瞬間カミールはきゃらきゃらと笑いだした。予想しない反応にマグナスもきょとんと目を円くする。
「あなたが魔力を持ったって、私の後ろをついて回っていた過去は変わらないじゃない。私にとっては可愛い親友よ」
「可愛いって……」
「それにその力で何をしようって考えたの? 猫のホログラムを出すこと、ぎくしゃくしてる恋人から隠れること、お茶を入れること。他には?」
「……部屋の掃除?」
「ほらね」
やっぱり。と言って笑うカミールは嬉しそうに続ける。
「あなたが力を悪用するはずないってわかってるから、怖いなんて少しも思わないわよ」
「カミール……」
「それで?」
「え?」
息をついて、彼女は足を組み替えた。マグナスは首を傾げる。
「え? じゃないわよ。あなたが失恋しそうな相手って誰? ここ百年は恋人もいなかったでしょ。もう恋はしないなんて泣いてたのに」
「泣いてなんか…っ」
「泣いたでしょ。私の部屋で。クッション一つダメにしたの忘れたの?」
「……忘れてないよ」
ごめん、と呟くマグナスに「いいけどね」と返してカミールは紅茶に口をつける。
「おじ様に聞いたら『私は別れればいいと思うんだけど、マグナスがどうしても嫌みたいで…』って言うから」
「父上……」
「で? 誰なのよ、あなたが夢中の相手は」
「……アレクっていうんだ」
「アレク? 彼?」
「アレクサンダー・ライトウッド。研究所のパーティで知り合った」
「へえ。いい男なの?」
「彼は……とても素敵な人だよ。優しくて、料理も上手なんだ」
「セックスも上手いの?」
「ぶっ…」
飛び出してきた言葉に危うく咽るところだ。顔を真っ赤にしたマグナスを見て察したのか、カミールは「ふぅん」とにやにやしている。
「でもなんで別れそうなの? 喧嘩でもした?」
「違う。アレクと喧嘩なんて一度もしてないよ」
「じゃあなんで?」
カミールの疑問は最もだろう。けれど言い淀むマグナスに、彼女は口を開く。
「言いたくないならいいけど、話して楽になることもあるわよ」
「……さっき、魔力が戻った話をしただろう」
「ええ」
「君は父上の眼のことは知ってるよね」
「おじ様の金の眼のこと? 昔見せてもらったけど、あまりに綺麗で思わずちょうだいって言ったら母様に怒られたわ」
「そんなこともあったね」
思い出せば笑ってしまう昔話だ。けれどマグナスが同じ眼を持っていることを彼女は知らない。知ったら、離れていってしまわないだろうか。不安がないわけではないが、アスモデウスの瞳を「綺麗だ」と言うカミールならば大丈夫ではないかとマグナスは自分の手を握りしめる。
「――私の眼も、同じなんだ」
「あなたも?」
本当に? と見つめるカミールの目に映るのはいつもと同じチョコレートブラウンのマグナスの瞳だ。
「感情が昂った時にだけ出るみたいで……この前アレクと一緒にいたら急に」
「ああ、それでそのアレクに気持ち悪がられたらショックだから会ってないの?」
「なんで……!」
少し話しただけですべてを察する友人に驚愕の目を向ける。カミールは気付かれないと思ったのかと、そちらに驚いてしまった。相変わらずちょっと抜けているのだ、この親友は。
「それで? アレクはあなたの眼を見たの?」
「この前見られたかもしれない。咄嗟に隠したけど…」
「彼から連絡は?」
「何回か来てたけど、電源を切ったから」
わからない、と言うマグナスにカミールはきょろきょろと辺りを見回した。すぐにダイニングテーブルに目的の物を見つけたらしい。突然立ち上がった彼女を止める隙もなくカミールはマグナスの端末を手にすると電源を入れた。
「カミール、何を…!」
数秒して浮かび上がる画面はほとんどが件のアレクサンダーの名で埋まっている。時折挟まれているのはアスモデウスとカミールの名前だ。
「へえ、アレクサンダーね……」
「カミール、返してくれないか」
慌てて手を伸ばすマグナスに、ぽんと端末を返すとカミールはソファへと戻った。目の前に置かれたケーキにフォークを伸ばす。
「ちゃんと切ったから大丈夫よ」
「……もう」
何もしてないよね、と視線を向けてくるマグナスには笑顔だけを返すと、モンブランの栗にフォークを刺した。
「アレクはあなたの眼を直接見たわけじゃないんでしょう?」
「そうだけど、彼といたら感情が動くのは止められないからいつかは見られるかもしれないし……」
「それならいっそ正直に話しちゃえばいいのに」
「……本当は、それがいいんだろうけど」
でも、と口籠るマグナスを見つめるカミールの視線は優しいが、俯いたマグナスが気付くことはない。
「案外、大丈夫かもしれないわよ」
そう言って、カミールはバッグを持つと立ち上がった。いつの間にかケーキも紅茶も空になっている。
「カミール?」
「そろそろ帰るわ」
「もう?」
来る時も唐突ならば帰る時もかとマグナスは慌てて腰を上げた。
その時。
コココン、と軽いノック音が聞こえた。目を向けた先は玄関の扉だ。
「――マグナス?」
呼ぶ声の甘さにマグナスの心臓がぶわりと震える。
「どうぞ。開いてるわよ」
固まっているマグナスの代わりにカミールが応えると、そっと扉が外側へ開いた。顔を覗かせたのはアレクだ。久しぶりに見るアレクの姿にマグナスは顔が赤くなるのを感じた。ぼうっとしたまま立っているマグナスの腕をカミールが引っ張る。
「マグナス、ちょっと。玄関まで送ってくれないの?」
「え、あ、ああ……うん」
半ばカミールがエスコートするような形でアレクの立つ玄関へと向かう。
「あっ…!」
その途中、何かに躓いたのかカミールが倒れそうになった。すんでのところでマグナスは彼女を抱き止めたが、起き上がろうとしたカミールはマグナスの耳元に唇を寄せる。
「カミール?」
「本当に素敵な人じゃない。ちゃんと話してね。お似合いよ、あなたたち♡」
「なっ……!」
頬にキスをして「じゃあね」と言うと、カミールはするりとマグナスの腕から手を離して玄関へと向かった。マグナスはといえば真っ赤になった頬を片手で押さえて玄関の方を見ている。
「こんにちは、色男さん」
「……アレクだ」
「マグナスから話は聞いてるわ。私はカミール、彼の親友よ」
ひらひらと手を振って出て行くカミールの後ろ姿を二人揃って見つめるが、アレクが玄関を閉める音にマグナスも我に返った。
「アレクサンダー……」
「マグナス、……元気そうで良かった」
いつもならすぐに詰めてくる距離を空けたまま、アレクが静かに微笑む。けれど様子がおかしいと気付きながらも、マグナスは自分から一歩を踏み出すことができずにいた。
あれだけ避けてきたというのに、アレクの顔を見た途端彼に触れたくなるし、キスしたくもなる。そんな自分に当惑しながらも口籠るマグナスに、アレクの方が先に口を開いた。
「そっちに行ってもいい?」
「あ、ああ……どうぞ」
先程までカミールの座っていたソファを示すが、アレクは斜向かいにある二人掛けの方へ腰を下ろした。立ったままのマグナスを見上げて「座らないの?」と聞くから、そのままでいることもできず隣に腰を下ろす。半人分空けた距離にアレクはきゅっと唇を結んだ。
「……マグナス」
「なっ、に、あ、お茶、」
お茶を、と立とうとするマグナスの腕をアレクが掴む。思いの外強い力で掴まれてマグナスは眉を顰めた。気付いたアレクが「ごめん」と手を離す。
少しの間、沈黙が流れた。
先に口を開いたのはやはりアレクだった。
「マグナス。俺のことが嫌いになったなら、言ってほしい」
その言葉に驚いたのはマグナスだ。
(嫌いに? 誰が? 私が? アレクサンダーを?)
頭の上をはてなが飛び交っている。呆けたマグナスの表情に何かが違うと感じ取ったのか、アレクは「もしかして、俺の勘違い?」と首を傾けた。マグナスはぶんぶんと首を振る。
「違う、アレクサンダー。嫌いになんてなってない。私の方が」
「君の方が?」
聞き返されて、うっと言葉に詰まる。何を言うつもりだ。自問するがすぐに答えは出てこない。けれど誤解は解きたくて、マグナスは必死に言葉を重ねる。
「君を嫌いになんてならない。私が……私の方が、君に、嫌われたくないんだ」
「俺が? 君を?」
今しがたマグナスがした表情を、今度はアレクが顔に浮かべる。
「なんでそう思ったの? さっきくれたテキストと関係がある?」
「テキスト?」
アレクの言葉にマグナスがおうむ返しに答える。テキストどころか一切の連絡を絶っていたのに、と。
「ついさっき送ってくれただろ。『大事な話があるから来てほしい』って」
アレクが胸ポケットから出した端末を操作して見せてくれる。そこには確かにマグナスからのメッセージが届いていたが、マグナス自身送った記憶はない。ふと思い出したのは、先程のカミールの行動だった。電源をつけただけだと思っていたが、あの短い時間にアレクへテキストを送っていたらしい。
「大事な話っていうからてっきり別れ話だと思って。焦ったよ」
急いで来たんだ、と言うアレクの様子を改めてじっと見る。いつもはぴしりと整えられている髪はくしゃりと乱れているし、シャツにも皺が寄っている。額に汗まで浮かべて、およそアレクらしからぬ様子にマグナスは目を円くした。
(別れるかもって、慌てて来てくれた……?)
理由も言わず部屋を飛び出して、一方的に連絡を絶っていたにも関わらず、だ。
もしかしたら、と、マグナスは思う。
もしかしたら、彼なら。
アレクサンダーなら、本当のことを話しても受け入れてくれるのではないか、と。
「……アレクサンダー」
静かな声に、アレクはじっとマグナスを見つめる。次の言葉を待つように。
「私に……魔術師の血が流れている、と言ったら、驚く?」
「魔術師?」
「そう。悪魔と人間の間に生まれたダウンワールダーの一人だ」
「悪魔は大昔に滅んだって聞いたけど」
「ほとんどの悪魔はね。けれど私や父上のように人間に混じって暮らしている者もいるんだ」
「……へえ」
頷くアレクの表情から畏怖や嫌悪は感じられず、マグナスは思わず「疑わないの?」と聞いてしまった。怖くないのは嘘だと思っているからじゃないか、そう思って。
「疑う? なんで?」
「なんでって、突拍子もないだろ、こんな話……」
「驚きはしたけど、君が何か決意して話そうとしてくれたことを疑いはしないよ」
「アレクサンダー…」
あまりに真っ直ぐ見つめられて、マグナスは心が喜びに奮えるのを感じた。その瞬間。
「――っ」
あの痛みが目の奥を走った。変化を察してぎゅっと目を瞑る。見られる前にせめて話しておきたかったと思うが、時は巻き戻らない。
「マグナス? 痛いのか、大丈夫?」
「……大丈夫…アレクサンダー、魔術師には身体の一部にその証が出るんだ」
目を押さえたまま言うマグナスが心配で、アレクは頷くことしかできない。
「私はそれが眼球に現れるらしい」
「眼に?」
「ああ……醜いと思うかもしれないが」
瞳を閉じてそう告げるマグナスの頬を、大きな手のひらが包み込む。その温かさに安堵を覚えるマグナスに、アレクは静かに告げた。
「マグナス、見たい。……見せて」
「……」
そっと瞼を持ち上げる。その下から覗いた瞳の色に、アレクは息を呑んだ。
黄金が光を反射してきらきらと瞬く。星が集まっているのかと思うほどに。中心を縦に走る漆黒も周囲の星々と混じりあって時折光るのを、アレクはじっと見つめていた。言葉を失うほど、それは美しく輝いていた。
「…………綺麗だ」
「え……?」
「すごく、綺麗だ。マグナス」
その言葉に偽りがないことはすぐにわかった。マグナスの好きな、光を湛えたヘーゼルは何よりも雄弁に心を語る。
受け入れられたのだと、理解した時。マグナスの瞳からは涙が溢れだした。次から次へと溢れる透明な雫は頬を伝って落ちていく。アレクは金を反射して煌めく涙に唇を寄せた。
「……っふ、う…」
「泣かないで。マグナス」
「きみ、に、きらわれると、おもっ…」
「そんなわけない。嫌われるとしたら俺の方が心配してる。いつか君に愛想を尽かされるんじゃないかって」
「……それこそ、ありえないよ」
ふふ、と笑うマグナスの顔を挟んで上向かせるとアレクは優しく微笑む。
「やっと笑った」
「やっと……?」
「気付いてなかった? 今日は会ってからずっと、すごく難しい顔してた」
「……緊張してたから」
「もうしなくていいよ」
「んっ…」
合わせた唇は塩の味がして、ふたり一緒に笑った。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です