take a shine1

目覚めた視界に広がるのは見覚えのない天井。鈍い頭痛。身体のあちこちが重く気怠さが残っている。
(――ここはどこだ?)
部屋全体を見ようと身体を起こしたマグナスは、その瞬間ぎくりと固まった。
「おはよう。よく眠れた?」
隣に寝転がったままマグナスを見上げる美丈夫。彫刻と見間違えそうな彫りの深い顔立ち。太く凛々しい眉の下にはヘイゼルの瞳が窓から差し込む陽光を受けて輝いている。濡れ羽色の髪はくるりと癖がついているが、顔が綺麗な男はたとえひどい寝癖があっても様になるものだ。
マグナスはといえば、目の前の男も、そして自分も恐らく服を着ていない(せめて下着は、と思うが肌に触れるのはシーツの柔らかい感触だけだ)という事実に呆然としていた。まさか。そんな。親しくなった覚えもない男と。自分が。ぐるぐる巡る思考に一度ぎゅっと目をつぶる。そろりと目を開いたところで夢が醒めるわけでもなく、再び「おはよう」と低い声が聞こえた。
「あー……おはよう」
「良かった。寝ぼけてたのか?」
可愛いな、なんて言葉に頭痛が酷くなる。一体全体何だってこんなことに。溜め息を吐いたマグナスに男は目を細めた。そっと手のひらを向け、マグナスの腕に触れる。
「大丈夫? 無理させたかな」
「ああ、いや、その」
「君も気持ちよさそうだったから、つい。ごめん」
「え?」
「ん?」
「いや、いい。何でもない」
小首を傾げた男が「聞こえなかった?」と繰り返そうとするのを制して、マグナスはベッドから降り立った。よろけた足を絨毯が優しく受け止める。
「待って。どうするつもり?」
「帰る」
「は?」
待って、と追いかけてくる声を無視して自分の服を探す。床に点々と落ちているのを拾って身につけながらマグナスはドアへと急いだ。下着とパンツを穿いてシャツに袖だけ通す。追いかけてくる気配に、マグナスは扉を閉めるとポータルを開いた。空間が揺らぐ。足を踏み入れ見慣れたロフトに辿り着いた瞬間、その揺らぎは消滅する。
「君……!」
慌ててバスローブを羽織った青年――アレクサンダーがドアを開けたが、マグナスの姿は忽然と消えていた。広い廊下をきょろきょろと見渡すが隠れている様子もない。
「一度だけじゃなく二度までも……面白い」
研究所のパーティでの様子を思い出すと思わず笑みがこぼれた。一度セックスしてしまえば興味も尽きるかと思ったが、どうやら違うらしい。アレクは鼻歌でも歌いそうな機嫌の良さで部屋へと戻っていった。

アレクサンダー・ライトウッドは、これまで恋愛で苦労したことがない。ともすれば敵を作りそうな人間だが、整った顔立ちと愛嬌の良さでうまく立ち回り、気になる相手がいればそれらを利用して関係を築いてきた。けれど妹のイザベル曰く、「お兄ちゃんの恋愛は遊び。本気になったことなんてないんだから。別にそれでお兄ちゃんを嫌いになったりしないけどね」だそうで、美しい相手を見つけては自分に惹きつけて、ベッドインして、次はナシ。基本的にそういう付き合い方をする相手を選んでいるから揉めることもない──なかったのだ。今までは。
「なんで落ちないんだと思う?」
「なんで落としたいの?」
パスタを食べながら質問に質問を返す妹に、アレクは目を円くしてみせた。
「え、驚くとこ? だってお兄ちゃん、一回すればそれでおしまいだったじゃない。なんで今回に限ってそんなこと気にしてるの?」
言われてみればその通りで、アレクは低く唸る。フライドポテトの山にフォークを突き刺すが、口元へと運ばないまま皿の上に細切れになったポテトが量産されている。
――なぜ落としたいのか。なぜ一回寝ただけで満足しないのか。確かに、今までのアレクなら(こういうこともあるか)なんて思って次の相手を探しているだろう。今までなら。
(今までとは何が違うんだ……?)
「ねえ、ところで」
「ん?」
「お兄ちゃんが惚れた相手って誰なの?」
「惚れた? 誰が?」
「は?」
「え?」
再び、質問への質問。目を合わせたまま数秒動きが止まる。
「……まあいいや。とにかく、お兄ちゃんが言ってる相手って、誰?」
「イジー、俺は別に惚れたわけじゃ」
「うん。わかった。そういうことにしておくから」
手をひらりと振る妹の仕草にこれ以上話しても無駄だと察したのか、アレクは「そうじゃないって」とだけ呟くと、彼の名前を口にした。
「……マグナス」
「マグナスって、あのマグナス!? 占い師の?」
「ああ」
身を乗り出さんばかりの勢いにアレクは首を傾げる。
「そんなに有名なのか?」
「有名も何も、テレビにだって出てるじゃない!」
「へえ?」
「あ、ほら。ちょうどCMやってる」
研究所のランチルームには大型のテレビが壁にかかっている。イザベルが指さしたそこにはマグナスに運命を変えられたという男性が「ありがとう、マグナス・ベイン」と笑っている。今までにも目にしたことはあったのだろうが、意識に留めたことはなかった。というより、テレビに映るマグナスとパーティで会ったマグナスの雰囲気があまりに違っているからだろうか。
初めてアレクが会った時には地味な――落ち着いた雰囲気だったから。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ん?」
「私もマグナスに占って欲しいんだけど」
「私もって……俺は占ってもらってないぞ」
「じゃあ一緒に行こう! 連絡先知ってるんでしょ?」
「いや、知らない」
「……なんか、ほんとに珍しいよね」
いつもそつがないのに。と言葉にしなかったのはイザベルの優しさだろう。
「んー、それなら私が予約するから一緒に来てよ」
「何を占ってもらうんだ?」
「……サイモンとうまくいくか」
「そんなの」
占わなくたってわかるのに、と言おうとしたアレクをイザベルの指が止める。
「いいの。どうしたらいいのか知りたいだけだから」
その時、イザベルのスマホが短い音を鳴らした。サイモンからの連絡だということは彼女の表情を見れば分かる。出口に向かうイザベルはもう一度アレクを振り向くと「予約の日、また連絡するね!」と言ってかけていった。
(……もう一度会えばはっきりするか)
そう思いながら、アレクは冷めたポテトにフォークを刺した。

クラリーが――異世界から来たのだというクラリーがマグナスの元を訪れ助けを求めたことで、マグナスの世界は一変した。遙か遠い時代にデーモンは滅び、魔術師としての役割を果たすことのなかった肉体。けれど長きに渡って眠っていた魔力がクラリーと出会ったことで目覚め、今も体内を巡っている。
指先に意識を込めればゆらりと空間が歪む。炎とも液体ともつかない不思議な感覚。テーブルに置いたマグカップへと魔力を向ける。指先から糸を繰り出し操るように動かせば、ふわりと宙に浮いたマグカップがこちらへと漂ってくる。
マグナスの占いが当たると評判なのは、八百年のうちに錆びついたもののこの魔力が影響していたのかもしれない。
「う……っ」
意識が逸れた瞬間、マグカップが落下し床の上を転がった。絨毯がクッションになったためか割れてはいないが、溜め息を吐いてマグナスはそれを拾う。
数百年という時の流れは魔力の使い方を忘れさせるには十分すぎて、コントロールも今ひとつ上手くいかないでいた。それに、魔力を使う度にフラッシュバックする過去の邂逅はマグナスを感傷にふけらせた。
誰も彼もがマグナスを置いていってしまう。
それは争いであったり、寿命であったり、向ける感情の違いであったり、様々な要因であったけれど。八百年。それぞれに想いをかたむけては喪失を味わってきたマグナスは、今や誰とも深く関わらないことを選ぶようになってしまった。そうすれば悲しみも、苦しみも、マグナスを苛むことがないからだ。けれどそれは孤独と隣り合わせの選択でもあった。
マグナスが久しぶりにその場所を訪れようと思ったのは、独りで感傷に浸るにはあまりに寂しすぎる夜だったからだ。
「……久しぶりだね」
「ああ、ラファエル。元気そうで何よりだ」
明るい大通りから一本裏路地へ入ったところにその店はあった。扉にはよく見なければ分からないほどの細さで「D」の一文字が彫られている。
「ドゥモート」と呼ばれるそこは一人で過ごしたい時にマグナスが訪れる数少ない行きつけの場所だった。知る人ぞ知るバーで簡単には入って来ることができないようになっている。
店主であるラファエルは息子のような存在だ。マグナスがいつも座る奥の席を視線で示してくれる。
「お茶でいいかな」
「ああ……いや、今日はやめておこう。オススメのカクテルを」
マグナスがそう言うとラファエルは珍しい、という顔をした。滅多にアルコールを嗜まないマグナスのために、このバーでは常時世界中の茶が飲めるようになっている――ラファエルがそうした――のだ。どこか沈んだ様子の姿は見覚えがある。けれど想いを独りで抱え込もうとすることも知っていたから、ラファエルは静かに頷いた。
ロックグラスの名で親しまれるオールド・ファッションド・グラスを取り出す。砕いた氷を入れ、ウィスキーを注ぐ。その上からジンジャー・ワインを注いでいけば琥珀色の液体が揺れた。軽くステアする。
どこか遠くを見つめている男の前に、ラファエルはそっとグラスを置いた。
「……ウィスキー・マックか」
「今のあなたに必要かと」
「ありがとう」
僅かに口に含めば、ピートの芳醇な香りの中にぴりっとした生姜の辛みが広がる。白ワインの甘さが口当たりを良くしてくれる。こんな夜ばかりはアルコールに思考を塗りつぶして欲しかった。消えることのない彼らや彼女らの記憶と共に。
いくつ杯を重ねたのか、ふわふわと浮かぶ思考の外で自分の名を呼ばれた気がした。ラファエルの声ではない。彼は反対側のテーブルで客のためにシェイカーを振っている。それに彼の声はこんなに甘くなかった。
「マグナス・ベイン?」
「……ああ」
「やっぱり。俺のこと覚えてる? 前にパーティで会った」
パーティ。……パーティ? そうだ、クラリーに請われて訪れたパーティ。
あまり人が集まる場所は得意じゃない。あの時だって招待状が無いからと追い出されそうになって…… ああ、あの時の。
「君か」
「良かった。あの時はゆっくり話す暇もなかったから」
君と話したかったんだ。そう言って男は「隣、いい?」と返事を待たずに腰掛けた。手にしていたグラスを置くと体をマグナスへと向ける。ブルーのシャツが青空のように眩しくて、マグナスは一瞬目を細めた。
「改めて、俺はアレクサンダー・ライトウッド。みんなアレクって呼んでる」
「よろしく、ライトウッド。私は」
「知ってる。マグナス・ベイン、有名な占い師」
「ああ、君も占ってほしいのか。それなら」
「いや、いいよ」
「……必要ない?」
「ああ」
マグナスがあの――有名なマグナス・ベインだと知った人々の反応はいつも同じようなものだった。
「あの人とうまくいくか占ってほしい」
「今回の取引を成功させるには」
「捜し物が」
それは生業でもあったし、誰かに頼られることは嫌いではなかったが、そうではない自分を求められたい、と。心の奥底で眠る願いを見透かすようなアレクの瞳から目が離せなくなる。
「さっきも言っただろ? 話したかったって。俺が知りたいのは俺のことじゃなくて、君のことだよ」
「ライトウッド……」
「アレク」
「……アレク、」
「うん」
カウンターの上に無造作に置かれていたマグナスの手。その甲をアレクの指がゆっくりと撫でさする。久しぶりに触れた他人の熱にマグナスの手がぴくりと震える。けれどふりほどこうとはしない。するり、と、長い指がマグナスの指の間へ滑り込むのも止めなかった。それどころかアレクの指を絡め取るようにきゅ、と力を込める。
逸らせずにいた瞳が潤む。
黒曜石の中にいくつかの星を見たアレクはその美しさに息を呑んだ。
「……場所を変えないか」
喉から出た声は低く掠れている。マグナスは小さく頷くと、ロックグラスの下に紙幣を滑り込ませた。
「――マグナス?」
ラファエルが視線を向けた先にあるのは空になった二つのグラスだけ。既に二人の足はホテルへと向かっていた。

「ライトウッド?」
今日の予約表を確認しながらマグナスは口元を手で覆った。聞き覚えがあるどころか苦い思い出が浮かぶファミリー・ネームだが、名前は「イザベル」となっている。無論、彼の身内だからといって断ることはないが、気まずさはどうしても拭えない。
あの一夜から一週間、彼とは一度も会っていない。彼の働く研究所にはクラリーに頼まれて行っただけでマグナスの生活には関わりがなかったし、彼と出会ったバーにはラファエルに聞いて誰もいない時を狙って一度訪れただけだ。
彼を避けているわけではないと自分に言い訳しながら、その実逃げていることは確かだった。
(だって、どんな顔をして会えばいい? あんな、会ったばかりなのに……)
あの夜を思い出すだけでマグナスの身体には火がついてしまいそうだった。長い間閉ざしていた身体を拓かれ、貫かれ、泣いて縋るまで愛された夜だった。
内からも外からも刺激されて何度も昇り詰めて、身体を繋げることがあんなに気持ちいいものだと知らなかった。まるで新しく塗り替えられてしまうような、そんな。腹の奥がざわめく気配に必死で蓋をする。あれは一夜の過ちでもう自分には関係ないことだと。
(彼が来るわけではないし、大丈夫だろう……)
そう自分に言い聞かせて準備を始めるが、その間 胸騒ぎが収まることはなかった。

「ようこそ。今日は何を占い、に……」
笑顔でイザベルを迎えたマグナスは彼女の後ろに立つ男の姿に顔を強ばらせた。対照的にアレクは目映いほどの笑顔を浮かべている――どこか肉食獣を思わせるけれど。
「初めまして。イザベル・ライトウッドよ」
「あ……ああ、イザベル。ようこそ。後ろの彼は、」
「兄なの。あなたとパーティで会ったっていうから付いてきてもらっちゃった。あ、一人じゃないといけなかった?」
「いや、そんなことはないよ。占うのは君だけでいいのかな」
「ええ。アレクは待たせてもらってもいい?」
「もちろん。向こうのソファでも使ってくれ」
マグナスの示した方へ歩いていくと二匹の猫がソファの一席を占めていた。丸まって眠る一匹と、我が物顔でアームをのしのしと歩く一匹だ。
「名前はなんていうんだ?」
「……ニャン議長とチャーチだ」
「へえ」
何か、と言おうと視線を向けたマグナスの目に映ったのはニャン議長の背を優しく撫でるアレクの姿だった。
「お兄ちゃん、猫好きなんだよね」
「ああ、そうみたいだな……」
あの表情を見ればわかる。長身を低く屈めてまだ撫でている。
「思うとおりにならないところが面白くて可愛いんだって。構いたくなるって言ってた」
ちょっと歪んでるよね、と笑うイザベルは気を取り直したように椅子に座るとマグナスと向き合った。
仕事を思い出したようにマグナスは手元にタロットカードを用意する。
「それで、占いたいのはどんなこと?」
「恋人がいるんだけど、あ、サイモンっていうの。笑顔がすごくキュートな人。彼からこの前部屋の鍵をもらってルームシェア……ううん、同棲することになったんだけど、うまくいくか不安で……」
「彼との生活を占いたいんだね」
「そう!」
前のめりに頷くイザベルに微笑むとマグナスは手にしていたカードをテーブルの上へと広げた。
「イザベル。いいと思ったところでストップをかけて」
そう言うと両手でカードを大きくシャッフルし始めた。さらさらとカードの擦れる音だけが静かな部屋に響く。数秒見つめたところでイザベルは「ストップ!」と声をかけた。ぴたりと手が止まる。マグナスは散らばったカードをひとまとめにすると慣れた手つきで整えた。テーブルの中央へと横向きに置き直す。
「次は左手で三つの山に分けて」
「私がやるの?」
「ああ。枚数は気にしなくていい。だが落としたり表に向けたりしないようにだけ気をつけて」
「うん……」
桜色の指先がそっとカードを持ち上げる。ほぼ同じ高さに分けられたカードの山を見て、マグナスは続けた。
「それじゃあ、さっきとは違う順番で一つの山に戻して。カードの向きはそのまま」
「わかった」
左のカードを、続けて右のカードを真ん中のカードに重ねて山に戻す。どちらを上にするか尋ねられたイザベルが右側を指すとマグナスはカードを持ち上げて三回カットした。
「今から三枚のカードを並べる。最初が君のこと、二枚目が彼のこと、最後が今後の二人のこと。いい?」
「うん」
マグナスの手元を見つめるイザベルの目は真剣そのものだった。一枚ずつめくられていくカードを注視する。絵柄は三枚とも異なり、一枚目と三枚目は正位置、二枚目だけが逆位置に置かれた。
瞳を揺らしたイザベルを安心させるようにマグナスは微笑む。
「カードの向きが逆さまだから悪い意味、というわけじゃないよ」
「あ……そうなの」
ほっと息を吐いたイザベルに向き合うと、マグナスはゆっくりと語り出した。低く穏やかな声が唄うように紡がれる。
「君は……どこか恋愛のことになると臆病になってしまう? 相手の反応が気になったり、なかなか思うように振る舞えなかったり。でも、君が好きになった彼――サイモンだって、君のことを想っているよ。きっと彼の反応や仕草に君への好意があったからこそ二人の関係が進展したはずだからね。今の君に必要なことは……彼とのコミュニケーションを楽しむことだと、カードが言っているよ。どうしたらお互いが一番楽しめるかを見つけるゲームだとでも思えばいい。彼のことをじっくり観察していくうちに君の不安も薄れていくはずだ。
それから、彼のカードは逆位置だけど、これは変化を受け入れようという意味をもっている。ああ、浮気や移り気だとか、そういう意味じゃないよ。二人の関係は今少し変わろうとしているだろう。一緒に暮らすことで相手の新たな一面を知ることは良いこともそうでないこともあるだろうけど、お互いの変化を受け入れていけばいい。大丈夫だよ。
最後のカードは初めの二枚と意味が重なってくる。これも相手の気持ちと向き合うことを示すカードだ。二人とも……漠然とした不安が目の前にあるね。恐らくそれは相手が自分のことをどう思っているか、どう思うようになるのか、そんな不安かな。もしかして、相手が正直な気持ちを話してくれていないんじゃないかって思っている? そして君も彼に話していないことがある。君たちはよく似ているね……でも彼といい関係を築いていきたいなら互いに言葉にして伝えることが必要だ。今、何を感じていて、何を考えているのかを。そうすればきっと素晴らしい関係を築くことができるよ」
「……」
「イザベル? どこかわからないことがあったかな」
「あ……ううん、違うの。なんか、すごいなって思って……ずっと言葉にできなかった悩みに形が与えられたみたいで」
強ばっていた細い肩から力が抜ける。安心した表情を浮かべるイザベルに「それは良かった」と微笑む。
「終わったのか」
いつの間に来ていたのかイザベルの後ろにはアレクが立っていた。その腕に猫が抱かれているのを見たマグナスは驚きに目を円くした。
「何かまずかったか?」
「いや……珍しいなと思って。チャーチは私に抱かせてくれるまで結構かかったから……」
「そうなのか」
意外そうに言ったアレクが喉を撫でるとチャーチはごろごろと気持ちよさそうに喉を鳴らした。
「ねえ、お兄ちゃんも占ってもらったら?」
イザベルの言葉に二人は顔を見合わせる。
「せっかく来たんだし。それにお兄ちゃん、最近気になる人ができたって言ってたじゃない」
ね、と笑うイザベルの声がどこか遠くから聞こえてマグナスは視線を落とした。後日訪れたバーでラファエルから聞いた忠告が脳裏に浮かぶ。

『――マグナス。あなたが誰とどんな関係を築こうと自由だけど、彼はやめた方がいい』
言おうかどうか迷った末に、絞り出したような苦い声だった。
『彼?』
『とぼけないでください。この前珍しくアルコールを注文したかと思えば、彼と――ライトウッドと一緒に消えたでしょう』
突然名前を出されてマグナスは目を瞬かせた。彼が名乗った時、近くにラファエルはいなかったはずだ。
『ラファエル、君、彼を知っていたのか』
『知っているも何も、界隈では有名ですよ。ああも整った顔立ちならどこでも目立つでしょう。だから声をかける者は後を絶たないし、彼もそれを拒まない。誰と関係を持とうが彼の自由です。それをどうのこうの言うつもりはありません。でも、……あなたは、違うでしょう』
『……心配してくれてありがとう。でも大丈夫だ。あの夜は私もどうかしていた』
大丈夫だよ、ともう一度呟いてティーカップを傾けたマグナスを見るラファエルの瞳には「心配」と書かれているようだったが、あの晩よりは落ち着いた様子の姿に安心したようだった。――実際のところ、マグナスの心はぐらぐらと揺れていたがそれを表に出さないだけの歳月は重ねていたので、カップを持つ指が僅かに震えていたのを知る者はいない。

「あの、マグナス……私、迷惑なこと言っちゃった?」
「え……?」
ごめんなさい、と肩を落とすイザベルが目の前にいる。考え事をすると周りの音が聞こえなくなってしまうのはマグナスの悪い癖だった。慌てて両手を振る。
「いや、迷惑だなんて。ただ今日は予約が詰まっているから時間が取れなくて……すまない、改めて来てくれるのなら歓迎するよ」
「いいのか?」
「あ、ああ」
イザベルより早く反応したアレクがその表情を綻ばせる。携帯端末を取り出して日程を確認し始める姿にマグナスは心がざわつくのを感じた。
(そんなにも“気になる人”がいるのか……)
「来週のスケジュールを確認してから予約を入れたいんだけど、連絡先を教えてもらっても?」
「え? ああ、大丈夫だよ」
「ありがとう」
にこりと微笑んだ顔はやはり彫刻のように整っていて、マグナスは一瞬目を奪われた。

兄妹が館を後にして一時間も経たないうちにアレクから連絡が入った。文面によれば占いの予約は三日後。ちょうどキャンセルが一件出たところだから大丈夫だと返信すれば、間髪入れずに感謝のメッセージが届いた。その直後には翌日の食事の誘いも。
気持ちは惹かれるもののラファエルの忠告が頭の片隅から離れない。断りの返事を送るが、返信への感謝と次こそは、という約束の旨、そして三日後に会えるのを楽しみにしているとすぐに送られてきたテキストにマグナスは息を吐いた。プレイボーイというものはこうもマメなのかと。そして彼からの返信を楽しみにし始めている自分にも。

「やあ。三日ぶりだね」
「ああ、入って。時間通りだ」
今日は一人で訪れたアレクを部屋へ迎え入れる。二人の足下に二匹の猫がすり寄るのを見下ろすアレクの笑顔に、マグナスはまたしても見惚れてしまった。首を振って意識を集中させる。
「それじゃあ座って」
「ああ」
示された椅子に腰掛けたアレクが見つめてくる視線から逃れるように手元を見ると、マグナスは口を開いた。
「今日は何を占う?」
「気になる人がいるんだけど、どうすればいいか知りたいんだ。占う時って具体的に話した方がいい?」
「より明確な答えが欲しいなら具体的な方がいいけど、大まかな情報でもできなくはないよ」
「ふうん……それなら名前は言わないにしよう」
「わかった」
その方が面白そうだし、と笑うアレクに首を傾げながらマグナスはカードを取り出した。伏せたままテーブルの中央に置く。
「さて。何を占おうか?」
「さっきも言ったけど気になる人がいるんだ。気付くとその人のことを考えていて、正直自分でも驚いてる。彼はとても美しいのにそのことに気付いていないみたいだから俺が教えてあげたい。すごく素敵だって。それに自分の仕事に熱心なところもいいね。尊敬できる。最近少しいい関係になれそうだと思うことがあったんだけど、なんでか態度がつれなくて……だからどんなアプローチが有効か知りたいんだ」
「……熱烈だね」
滔々と語るアレクの勢いに少し呑まれたマグナスは一言そう呟く。
「そう?」
まだ続けられるけどと言わんばかりの表情。彼にこうまで言わせる相手とはどんな人物なのだろうかと推測しそうになるが、彼が名前を出さないと決めた以上余計な詮索はしてはいけない。深呼吸をひとつして、マグナスはカードの山を崩した。
「それじゃあ占うよ」
「うん」
イザベルの時同様にカードをシャッフルし、山に分け、そしてまた一つに戻す。
「……魔法使いみたいだな」
「え?」
どきりと心臓が鳴る。力は使っていないし、アレクに気付かれるようなことは無いはずだ。
「指が、カードを魔法みたいに動かすなって。この前も思ったけど」
続けられた言葉に杞憂であったことを知り、ほっと息を吐き出す。この前とはイザベルのことを占っていた時のことだろう。
「……見ていたのか」
「もっと近くで見たいって思ってた」
「っ、……そう」
突き刺さるような視線に顔が上げられない。ヘイゼルの瞳が見つめているのは本当に指先だろうか。それに今、彼の瞳を見てしまったらまずい気がする。
何かが始まってしまいそうな、そして何かが崩れてしまいそうな。
直感でしかないそれはけれど今まで幾度となくマグナスを守ってきたものだ。指が震えないよう集中して三枚のカードをめくる。
「左から、君について、相手について、そして二人の関係を示す」
「ああ」
「だがそれぞれ単独で読むというより、三枚の意味が絡み合うんだ。最後のカード、これは『運命の輪』。名前の通り、二人は運命としか思えない出会いをしている。互いの一目惚れといっても過言じゃないかもしれないね」
「へえ……」
「それにアレク、君の方は十分にアピールできる準備は整っている。君が本気でアプローチしようと思っているなら半分解決しているようなものだ。悩むよりもまずは行動あるのみとカードが言ってる。でも、」
「でも?」
アレクの笑顔が僅かに曇る。
「相手は恋をすること自体に自信がないみたいだ……心の向くままに愛することへの不安があるのかも。恋愛に尻込みしている状態だ」
「不安、ね……」
「落ち込むことはないよ」
難しい顔をしてしまったアレクを勇気づけるようにマグナスは三枚目のカードを指し示した。
「最初に言ったけれど、きっとこれは運命の出会いだ。相手の不安を君が吹き飛ばしてあげるぐらいのつもりでいい。勿論、無理強いはダメだけど、でも」
言葉を区切ると、マグナスは真っ直ぐにアレクの目を見た。
「運命は君の味方だ、アレクサンダー」
力強い声に、ヘイゼルがはちりと瞬いた。ゆっくりと厚い唇が弧を描いていく。本当に魅力的な男だとひっそり思うマグナスに、それは突然落とされた。
「やっぱり相手の名前を言ってもいいかな」
「え? あ、ああ。それは勿論構わないが、もう一度占った方がいいかい?」
「マグナス」
「うん?」
「マグナス・ベイン」
「ああ、だから相手の名前を」
「君だよ」
「え?」
思わず聞き返したマグナスに、アレクはぐっと顔を近づけた。瞳を覗き込む。
「俺の占って欲しかった相手は、マグナス・ベイン。君だ」
「何を、冗談……」
立ち上がろうとしたマグナスの腕を掴まえて押し止める。
「隠して占ってもらうのは卑怯だった。ごめん。でもこうでもしないと君には会えないと思ったから。それに、君に好意をもっているのは嘘じゃない。さっきカードもいってただろ、俺たちの出会いは運命だって」
「それは……」
言葉に詰まる。自らの占いを否定することはできなかった。それは結果が当てはまらないからじゃない。カードが正直だからだ。
長いこと恋愛から遠のいている。それはマグナスの紛れもない事実で、新しく他者と関係を築くことに不安をもっている。一度築いたものはいつか崩れる――人の心はどうしたって移ろいゆくものだから。その苦しさに向き合いたくなくて逃げていたというのに。
あの日、研究所で初めて会った時。胸がざわついたのはクラリーとの約束を守れないかと心配したからだと思っていた――思い込もうとしていた。アレクが、イザベルと連れ立って館を訪れた時、やはり別の相手がいるんじゃないかという思いが頭を掠めた。そして彼女が妹だと知って心に浮かんだのは、あれは安堵だった。認めたくはないけれど。
「マグナス。俺の勘違いでなければ、君も俺のことが気になってるんじゃないか?」
違う? と見つめてくる瞳に頷いてしまいそうになる。けれど脳裏に浮かぶラファエルの忠告がそうさせてくれない。
『声をかける者は後を絶たないし、彼もそれを拒まない。誰と関係を持とうが彼の自由です。それをどうのこうの言うつもりはありません。でも、あなたは違うでしょう』
マグナスにとって誰かと心を繋ぐということは唯一のものだ。心のいちばんやわらかいところを分け合うような、自分のすべてを与えたいし、すべてで応えたいと思うような。そしてそれは、噂に聞く彼の心の在り方とはかけ離れているようで、マグナスを頷かせてくれない。
「……悪いけど、今日は帰ってくれないか」
視線を逸らし、それだけ伝えたマグナスをアレクが見つめる。俯いたまま口を噤んだマグナスは、ふと腕からアレクの手が離れるのを感じた。がたん、と椅子が音を立てる。
「帰るよ。驚かせて悪かった」
「あ、ああ……」
あっさりとした声に先程までの熱はない。出口に向かうアレクを追いかけるようにマグナスも慌てて立ち上がった。広い背中を追って部屋を突っ切る。扉の前で振り返ったアレクが「ありがとう」と笑顔を浮かべた。
「えっと、何が……」
「ここまで見送ってくれただろう。それに、占いのことも。イジーの時にも思ったけど、君の占いは相手に勇気を与えてくれる」
「勇気?」
「そうだよ。今まで占いなんて無責任なものだって思ってた。言葉遊びだろって。でも違った。君の言葉は一歩踏み出そうとしている人の背中を押してくれるんだ」
何のてらいもなく言うアレクを思わず見上げる。綺麗に微笑んだ男は素早くマグナスの頬にキスを落とすとひらりと手を振った。
「だから君のことは諦めないし、デートにも誘わせて」
じゃあまた、と去っていくアレクの後ろ姿が閉まるドアに隠れる。ふらふらと部屋に戻ってきたマグナスはぼすん、とソファに座り込んだ。ニャン議長がまるでそこが定位置であるかのように太腿の上に陣取って丸くなる。マグナスは温かい背中を撫でながら、アレクの触れた場所が次第に熱をもっていくのをまとまらない思考の中で感じていた。

【おはよう。昨日会ったばかりなのにもう君に会いたいよ。良い一日を。】
【美味しい店を見つけたんだ。イタリアンは好き? 良ければ今度一緒に行こう。】
【君が夢に出てきてくれたらいいのに。おやすみ。】
【この映画観た? イジーがすごくオススメだって。週末にどうかな。】
【君のことを考えていたら会いたくなってきた。】
「諦めない」という言葉の通り、アレクからの誘いが何度もマグナスの端末を鳴らした。無視することはできずに毎回律儀に断りの連絡を入れるマグナスを友人のカミールは「遊ぶだけ遊んで別れちゃえばいいのに」と笑ったが、そんなことはできなかった。かといってアレクの気持ちを受け取ることもできずにいる。悶々としたまま数日を過ごしていたマグナスの元へ彼が訪れたのは、正午を少し回ろうかという時刻だった。
「マグナス!」
ノックもなしに扉を開けて入ってきたのはマグナスよりも長身の男だ。年齢はマグナスやアレクより一回りは上だろうが、すらりとした身のこなしは彼を若く見せている。
「父上、どうかしたのですか」
「息子に会いに来るのに用件が必要か?」
いえ、と返事をする間もなく抱きしめられ、マグナスもアスモデウスの背に手を回した。何度も抱きしめられた後にようやく解放されると、マグナスは曲がった襟を直しながら尋ねた。
「それで、用件は?」
「久しぶりに食事でもと思って寄ったのさ。午後の予定は?」
「夕方に一件予約が」
「それなら大丈夫だ。何を食べたい? この前の店も良かったが」
「中華でしたね。せっかくなら別の場所に……そういえば先日教えてもらったイタリアンが美味しそうでしたよ」
「決まりだな」
頷くアスモデウスは既にドアへと向かっている。
急いでジャケットを手にするとマグナスも父の後へと続いた。

「誰に紹介されたんだ? ラファエルか?」
店へ向かう道すがらアスモデウスが尋ねる。世間話のような軽さだが、マグナスはすぐには答えられなかった。なぜなら教えてくれたのはアレクであり、自分はその誘いを何度か断っているからだ。意識に残っていたから咄嗟に答えてしまったが、もしかしたら彼と鉢合わせるのではないかと今更ながら思ってしまう。やはり中華にしようと踵を返そうとしたマグナスの背を大きな手が支えた。
「どこに行く? もう着いたぞ」
目の前に三色の国旗がはためく。その奥には落ち着いた雰囲気のレストランが鎮座していた。
道路に面した一面はガラス張りで中の様子がよく見える。客足は多いようでほとんどの席が埋まっていた。親子連れや友人同士、恋人と来ている人も多いようで、笑顔と笑い声が聞こえてくるようだ。
断ることもできず、アスモデウスに腰を抱かれ扉をくぐると香ばしい匂いが漂ってきた。なるほど人気があるのも頷ける。空腹を刺激する匂いだ。
「なかなかいい店だな……マグナス?」
隣を見たアスモデウスは、息子が固まったまま店の奥を凝視しているのに気付いた。つられて視線を向けると家族連れの席の中に男二人で座っているのが見えた。一人は座っていても長身なのが分かる。黒髪に精悍な顔立ち。向かいに座っているのは陽に透けるブロンドが見事な青年だ。どちらも整った顔をしている。普段であれば「いい趣味をしている」などと揶揄していただろうが、二人を見つめるマグナスが僅かに表情を歪めているのを見てアスモデウスは口を噤んだ。何かがあったのだろうが、本人が話さないのなら詮索はしない――息子が傷つかない限りは。
「そういえば、昨夜はイタリアンだったな。マグナス、すまないが今日のランチを変えてもいいかい?」
「え? あ、ええ。私は構いません……」
席の案内に来たウェイターに断りを入れると二人は店外へと向かった。数ブロック先にあるレストランにしようというアスモデウスの申し出をマグナスは半ば上の空で聞いていたが、父が指摘することはなかった。
腰を抱かれ案内されるまま足は前に進むが、マグナスの思考は完全に先程見た光景に囚われていた。
アレクに紹介された店なのだから、彼がいてもなんら疑問はない。それに彼は交友関係が広いようだったから、いろいろな人と気に入りの店を訪れるのだろう。そう、なんの問題もない――問題なのは、ショックを受けている自分自身だ。
記憶が確かなら、彼はクラリーと親しげにしていたはずだ。名前は――ジェイスといったか。綺麗な青年だった。後ろに撫でつけたブロンドと白いシャツがとても映えていて、二人のいる場所を切り取ったらまるで雑誌の一ページのよう。何より、彼と話すアレクが見たことのない表情をしていて。真剣に話していたかと思えば破顔して、そしてとても幸せそうに相手を見つめていた。ジェイスの表情は友人に向けるそれで、けれどアレクの方は違う。あれは――恋する瞳だ。
(――いるんじゃないか、特別な人が)
思い出されるのは「諦めない」と告げたあの日のアレクの瞳だ。真っ直ぐに見据えてきた双眸を疑いたくはない。けれど、それならさっきの光景は何だったのか。本人に確かめてみればいいとも思う。だが認められたら? 自分への告白は嘘や冗談で、ジェイスこそが本当は大切な人だと。想像しただけで冷水を浴びせられたような気分になる。
傷ついている自分を自覚した瞬間、マグナスは認めざるを得なかった。彼を――アレクサンダーを好きになっていたことを。そして同時に理解する。この恋が既に終わりを迎えていることも。
「マグナス。具合が悪いなら食事はまた今度でも、」
「いえ、――大丈夫です。行きましょう、せっかくの二人の時間ですから」
(まだ大丈夫だ。まだ、忘れられる)
彼の言葉も、彼の瞳も。そして自分の想いも。言い聞かせるように内心で呟く。気遣うアスモデウスの言葉に首を振ると、マグナスは笑みを浮かべた。

「……おかしい」
「何が?」
数時間前のこと。カフェワゴンの周りに出されたテーブルの一角。コーヒーを片手に、もう一方の手で携帯端末を弄りながらアレクが呟くのをジェイスが聞きとめた。どうかしたのか、と端末を覗き込む。親友に画面を見せながらアレクはコーヒーを一口飲んだ。
「返事はくれるけど、何回誘っても会ってくれない」
「例の占い師か?」
「ああ」
頷いて再び画面に視線を落とす親友に、ジェイスは笑いながら言う。
「それって脈無しじゃないか?」
「なんで」
「返事するのはただの社交辞令だろ。誘っても誘っても断られるってことはさ」
「社交辞令……」
「っていうか」
言葉を区切ってカフェラテを飲むと、ジェイスは首を傾げた。
「なんでそんなに気にしてるんだ? 次の奴引っかければいいだけだろ。相手には苦労してないんだし」
確かに相手には苦労しない。溜まったらいつもの場所で気に入った奴に声をかけてセックスする。アレクにとって誰かと抱き合うのは快楽の共有でしかなかった。それに何度も関係を続けると面倒くさいことになるのは若い頃に思い知ってもいたから、セックスするのは一度だけ。二度目はない。
マグナスとも一度寝たのだから早々に自分の気持ちが冷めるだろうと思っていたがどうにもうまくいかない。自分のアプローチに靡かないのかと思えばベッドまではスムーズで、それなのに朝起きたら会話を楽しむこともなくさっさと帰ってしまった。それも「失敗した」、そんな顔をして。珍しい反応に火がついたのかと言われれば、アレクは頷いただろう。だからもう一度会えば、彼の何がアレクを落ち着かなくさせるのか分かると思ったのに。気付けばカードを操る指先に、真剣に妹に告げる瞳に、その言葉に、彼自身から目が離せなかったのは何故なのか。
「おい、どうした。ほんとに大丈夫か?」
黙り込んだまま動かない肩をジェイスが揺さぶる。
「……信じたくない」
「何を?」
「何でもない」
未だ自分の内に燻る思いには名前をつけないように蓋をして、アレクは残ったコーヒーを一気に飲み込んだ。
「なあ、ちょうど昼休憩なんだ。一緒にどうだ?」
悩み事があるなら聞いてやるよ。からりと笑うジェイスに首を振って、けれどマグナスを誘った店の下見をするのもいいかと思い直す。
「店は俺が決めてもいいか?」
「ああ。うまいとこなら」
「決まり」
カップを捨てると、二人は連れだって歩き出した。

昼食時にさしかかる手前だったことから待つことなく店内に案内された二人は、気になるメニューをあれこれ頼んだ。ジェイスが頼んだのは冷製パスタや甘そうなピザでどうにも彼の好みとは遠い。
「クラリーとのデートの下見か?」
「おまえだって似たようなもんだろ」
笑顔がジェイスの言葉を肯定する。しばらく話しながら食事を楽しんでいたが、ふとジェイスが動きを止めた。おい、とアレクに声をかける。
「外にいるの、彼じゃないか?」
「彼?」
「おまえが狙ってるやつ。マグナス・ベイン」
「え、」
顔を上げたアレクの目に映ったのは確かにマグナスだった。何やら難しい顔をして通りを歩いていくその隣に、長身の男が並んでいる。やけに親しげな男はマグナスの腰に腕を回すと耳元で何事かを囁いた。マグナスが少しだけ表情を和らげる。二人の姿が見えたのは数秒ほどだったが、アレクには随分長い時間に感じられた。爪先で足を蹴られてようやく目を瞬かせる。
「向こうは彼氏がいたのか」
「彼氏?」
その言葉に思わず眉をしかめる。
「違うか? めちゃくちゃ仲良さそうだったろ」
「……」
またしても考え事を始めた親友に、ジェイスは会話を諦めてピザに手を伸ばした。
(彼氏……? マグナスに?)
そんなことは言ってなかったと思うが確かめた訳ではない。それにマグナスに彼氏がいるからといってアレクが何か言える立場でもない――そもそも二人の関係は名前がつくものではないし、自分のことを振り返れば――決めた相手をもたず多くの人と次々と関係をもつ自分が何を言えるだろうか。けれど胸の中の靄は晴れず、午後の仕事の合間も二人の姿が目の裏をちらつくばかりだった。

【会いたい】
短いメッセージが画面に浮かぶ。
最後の客を見送り片付けをしていたマグナスは、ぱちんと指を鳴らした。カードやテーブルクロス、ソファのクッションが勝手に揃い片付いていく。
端末を手にすると会話画面を開いた。そこにはアレクからのメッセージが幾つも並んでいる。マグナスからの返信は数えるほどで、そのどれもが誘いを丁重に断る文面だ。これだけ断っているのに毎回メッセージを送ってくるアレクが意外にもマメな性格だと感心しつつ、他の相手にもこんなふうに接しているのかと思うと腹の底が重くなるようだった。時には砂糖のように甘い言葉と共に写真も送られてくるようなやり取りだったのに、今回は驚くほど短い。何かあったのかと訝しむマグナスの目に新たな吹き出しが映った。入力中を表す円が点滅する。少しして、次のメッセージが浮き上がった。
【外を見て】
「外?」
室内を横切って窓際に向かう。窓の外を見ると街路に立つアレクが見上げていた。マグナスの姿を認めて笑みを浮かべたアレクが手元で何かを操作する。
と、手元の端末が震えた。音声通信の受話器をタップする。
『やあ、元気だった?』
「……ああ」
『もしかして忙しかったかな。邪魔したならごめん』
「いや、今日は終わったところだったから……大丈夫」
『それなら良かった。この後の予定は何かある?』
「え? いいや、特に」
素直に返事をしてから、あ、と思う。アレクの笑みが明るくなる。
『じゃあ一緒に食事でもどうかな。久しぶりに』
少しだけでも、と耳元をくすぐる声に思わず頷いてしまったのは誘いを断り続けた罪悪感があるからだと自分に言い訳をして、「少し待っていて」と伝えると踵を返した。
数分後、ジャケットを羽織って出てきたマグナスをアレクは笑顔で迎えた。
「久しぶり」
「……ああ」
口数少なく挨拶を交わすが、マグナスはアレクの姿を見つめたまま固まっていた。
ストライプのシャツにオフホワイトのクロップドパンツ。細身のラインはアレクのスタイルの良さを引き立てている。そして目を引くコバルトブルーのジャケットは彼によく似合っている。何よりも、久しぶりにヘイゼルの瞳に見つめられて顔が熱くなるのを感じた。
「マグナス?」
首を傾げるアレクに「元気そうで良かった」とぎこちない笑みを浮かべる。
「君は?」
「え?」
「元気だった? 忙しそうだったけど」
「あ、ああ。大丈夫だ」
「良かった。今日は誘いを受けてくれてありがとう」
ダメ元だったんだ、と俯くアレクの笑顔がどこか寂しそうに見えてしまう。
ダメだなんて、そんなことはないと言ってあげたい。そんな自分に気付くとマグナスはふるふると頭を振った。アレクからの再三の誘いを断り続けたのは他でもない自分自身だ。
それなのに彼がこうして自分のところまで来たのは何故だろう。相手には困らないはずなのに。
「……ナス、マグナス?」
「……え?」
何度か呼んでも返事をしないマグナスに、アレクは心配そうに眉を顰める。
「やっぱり疲れてる? それなら、」
「いや、大丈夫だ。ぼうっとしてた。すまない」
行こう、と微笑んで歩き出したマグナスの隣にアレクが並ぶ。
「無理はしないで」
「してないよ。それよりどこに?」
「この前テキストした店は? イタリアンの。この前行ってきたけどなかなか美味しかった」
「うん……」
頷きかけて、けれどほんの少し間が空いてしまう。マグナスの脳裏にあの日の光景が蘇る。ジェイスと楽しそうに過ごしていたアレクの笑顔が。曇った表情に気付いたアレクが聞く。
「あんまり好きじゃない?」
「イタリアンか? いや、好きだよ。だけど……実はあまりお腹が空いてなくて」
「それなら今度にしよう。今日は――ドゥモートは?」
「ああ、いいね」
苦言を呈していたラファエルにはアレクといることを何か言われるかもしれないと思ったが、嫌でもジェイスとのことを考えてしまう店よりも良かった。マグナスが頷くと二人は踵を返してドゥモートへの道を歩き始めた。

「カシスソーダを二つ」
カウンターからのオーダーにラファエルが顔を上げると見知った二人が並んで座っていた。
「やあ、一週間ぶり」
「マグナス……」
二人を見て、何も言わないことに決めたらしい。
けれどマグナスのために仕入れていた茶葉があることを思い出してそれだけを伝えれば、後でもらうよと返ってきた。
「お茶が好きなの?」
「アルコールより親しみがあるかな。色々な種類があって興味深いんだ」
「へぇ……今度淹れてくれる?」
「ここの裏メニューにあるから頼むといい」
君の家で、と言外に含んだ意図には気付かぬまま、好きなものに興味をもたれたことが嬉しいのかマグナスは笑顔で答えた。
「……そうするよ」
「どうぞ」
カラン、と氷の音を立ててロンググラスが置かれた。赤のグラデーションが美しい。それぞれにグラスを持つと軽く縁を当てた。喉をくすぐる炭酸の刺激が心地いい。
アルコールがあまり得意でないといった言葉通り、マグナスは少しずつグラスを空けていった。先に飲み終えてしまったアレクがエンジェル・ティップを注文するとラファエルは何か言いたそうにマグナスを見たが、結局は静かにグラスを準備した。
白と黒の二層が綺麗に重なった上に、カクテルピンに刺さったチェリーが一粒乗っている。名前の通り可愛らしい見た目のそれにマグナスが目を向ける。
「気になる?」
一口飲むかと向けられたグラスを断って、マグナスは口を開いた。
「君は甘いものが好きなんだな」
「意外?」
「いや……好きなんだなと思っただけだ」
「そう」
マグナスの意図が分からない。もしかしたら意図などないのかもしれない。思ったことが口から滑り落ちたような。けれど腹の内側を探る必要のない会話はアレクをひどく落ち着かせた。
もっと話していたいとも思うし、静かな時間を過ごしたいとも思う。それはアレクにとって今までに出合ったことのない感情だった。
『お兄ちゃんが惚れた相手って誰なの?』
『なんでそんなに気にしてるんだ? 次の奴引っかければいいだけだろ。相手には苦労してないんだし』
唐突に思い出したのは妹と親友の言葉だった。
マグナスに占ってもらう時には『気になる人』なんて言っておきながら、つれない相手を振り向かせるための作戦でしかなかった。そう思い込もうとしていた。けれど、違った。アレクのことを知る人たちは気付いていたのに。
自覚してしまえば想いが加速するのはあっという間だった。目の前でブルー・ラグーン――「青いやつがいい」というマグナスのオーダーでラファエルが作ったカクテルだ――を飲むマグナスを見る。
くぴりとグラスを煽ると浮き出る喉仏、しっとりと濡れた唇から目が離せなくなる。ショートグラスを大きな手で掴むように持ちながら口に運べば、ブランデーの芳醇な香りとアルコールが喉を焼いた。
「……マグナス」
何気なくカウンターに置かれていたマグナスの手の甲に、大きなアレクの手が重ねられる。じわりと伝わる体温の熱さに内側の指がひくりと震えた。マグナスの動揺を閉じこめるようにアレクの指先に力がこもる。
じっと見つめる瞳から目を逸らせない。いつもそうだ。見透かすような双眸から逃げたいのに逃げられない。今も、抜け出せないほど手を強く掴まれているわけでもないのに動かせずにいる。
「マグナス」
再び名前を呼ばれて、ふわふわしていた意識が急速に引き戻されるのを感じた。酔いが醒めていく。
「君のことが好きなんだ――前にも言ったけど、本当に。それに、君も俺に好意をもってくれてるだろ?」
「……っ」
確信をもった問い。いつものような笑顔じゃない、真剣そのものの表情にマグナスは息を呑んだ。アレクの言葉――彼に好意をもっていることを否定することもできず唇を引き結ぶ。頷いてしまえと頭のどこかから声がするのをきつく目を瞑って振り払う。そして手に力を入れると、強く引き抜いた。
「マグナス、なんで」
驚いた表情をするアレクを見つめる。黒曜石を思わせる瞳が苦しげに歪められていた。
「いつもそうやって愛を囁くのか?」
「何?」
「君にとっては相手は誰でもいいのかもしれない。君ほどの美しさがあれば引く手数多だろう? 君に好意をもっているかって? ああ、……そうだよ。君の言う通りだ。気付けば君のことを考えてるし、今日だって君に誘われて嬉しかった。君を特別に想っている。それを好きだと言うのなら、そうだ。私は君のことが好きだよ」
一息に話し終えるとマグナスは目元を手で覆った。言ってしまったことを後悔するように。アレクは目を円くしたままそっと口を開く。
「それなら、」
「だが、私には無理だ」
言葉を遮るようにしてマグナスが零したのは絞り出すような声だった。手の影からこぼれた涙が頬を伝う。
「私は、君のように恋をすることはできない。多くの人へ同時に愛情を傾けるような恋は。そういう関係を否定するわけじゃない。ただ、私にはできない。それだけだ」
「マグナス、俺は、」
「もうやめてくれ」
やめてくれ、と繰り返すマグナスがはっきりと自分のことを拒絶したのだと、それを理解するまでには時間がかかった。何度か瞬きをして、視界に映るマグナスの肩が震えているのを見止める。耳の奥で自分の鼓動を聞いた。
今までの自分の在り方を自分で否定するつもりはない。自ら選んで歩いてきた道だ。けれど、マグナスだけは違うと、彼は、今まで出会ってきた人々とは違うのだと心が叫んでいる。それをマグナスに伝える方法が分からない。でも、今伝えなければ二人の道が再び交わることはないのだと何故か理解していた。頭の中で警鐘が鳴る。
「君だけだ」
「何を、」
「君だけなんだよ。俺にとっても。自分でも分からないけど、でも、特別だって分かる。君が。君だけが。」
必死の声にマグナスが手を下ろす。目元に溜まった涙を拭いたいと思うが、手をきつく握りしめて耐えた。
「……その言葉をどうしたら信じられる?」
マグナスの言うことは最もだ。だが話を聞く気になってくれたことにアレクは安堵の息を吐く。
急いで端末を取り出すとカウンターに置いた。数回タップして一つのアプリを起動させるとアレクは呟いた。
「半年」
「何?」
「半年だ。半年間、誰ともセックスしない。勿論、君を含む誰とも」
真剣な眼差しで言うアレクに、マグナスは眉を顰めた。彼が本気なことは信じたいが、浮かぶ疑問を口にする。
「……それが証明になるのか?」
「短い?」
「そうじゃない」
そうじゃないけど、と口籠るマグナスだったが、これまで見聞きしてきたアレクのことを考えると、これが彼なりに出した結論なのだと納得することにした。身を屈めて提示された連絡アプリを見る。
「十七人?」
「……ちょっと違う」
連絡先に登録されている人数の少なさに首を傾げればアレクはばつが悪そうに言った。幾つめかの名前――ハリーをタップすると新たなアプリが立ち上がる。それはマグナスも耳にしたことのある、所謂出会い系というやつだった。
「十七個も登録してるのか」
「もう必要ない」
言うや否や、アレクは手早く画面を操作すると全ての連絡先を削除してしまった。空っぽの画面が映る。あまりの素早さに驚きながらもマグナスは最後の疑問をこぼした。
「でも、どうやって君がしてないことを確かめればいいんだ?」
「君にはその力があるだろ」
「……何だって?」
あっさりと言うアレクにびくりと身体を震わせる。
魔力のことは異次元から来たというクラリーにしか話していない。ポータルを介して元の次元に帰った後、ジェイスもクラリーもデーモンやマグナスの魔術に関する記憶を失っていたはずだ。まさか、と身構えるマグナスだったが心配はいらないようだった。
「何って、占いのことだよ。君の占いは当たるから。だから半年後に俺のことを占って」
そう言うとアレクは立ち上がりラファエルに声をかけた。二人分の代金を支払うとマグナスの元に戻ってくる。
「連絡はしてもいい?」
「構わない、けど」
「良かった」
じゃあ、と帰ろうとするアレクの背中を見つめる。ドアの前で一度立ち止まるとマグナスの方を振り向いた。片手を挙げるだけでも様になる。とけそうな笑顔でウインクを飛ばして店を後にしたアレクに、マグナスは暫くの間固まっていた。
「……あなたがいいのなら何も言いませんが」
「言ってるじゃないか」
湯気の立つカップを差し出しながらラファエルが言うのを「聞いてたのか」と返す。本来、客の会話は聞かない・聞こえない筈だが、父親同然にマグナスを慕う男はかなりの心配性なのだ。
「カモミール?」
「今のあなたに必要かと」
「君も言うようになったなあ」
「しみじみ言わないでください」
ラファエルとの他愛ない会話が今のマグナスにはありがたかった。アレクの言葉に速まっていた鼓動を抑えるように深呼吸をしてカップに口をつける。甘酸っぱい香りが少しばかり靄を晴らしてくれるようだった。

それからというもの、マグナスの元には今まで以上にテキストが送られてくるようになった。テキストだけでなく、花や動物、景色の写真まで。時折マグナスの空いた時間を狙ってアレクが屋敷を訪れることもあったが、ほとんどの場合差し入れを――飲み物や花束、たまに猫の食事を――渡して少し会話をすると帰ってしまった。
一度マグナスが何故かと尋ねると「君の仕事の邪魔をしたくないから」と微笑んだ。
アレクの柔らかい表情に、マグナスは不覚にも鼓動が跳ねるのを感じていた。
季節が移り変わる頃には、訪れたアレクをマグナスからお茶に誘うことも増えた。そして二人で食事に出かけることも。友人同士のような気軽さで過ごす中でも、不意にマグナスを見つめる瞳がひどく熱を帯びている時がある。そしてそれはマグナスも同様であった。本人は気付いていなかったが。
その日は午後の予定が空いているというマグナスを誘ってランチに出かけていた。空腹を満たそうと二人が選んだのは以前アレクが誘ったイタリアンだ。店内は混みあっていて、相席でと案内された場所にいる二人にマグナスは目を見開いた。
「アレク!」
「ジェイス、来てたのか」
「クラリーとランチしにな。そっちは?」
「マグナス、ジェイスとクラリー。昔からの友人だ」
「やあ。マグナス・ベインだ、よろしく」
「マグナス? イジーが占ってもらったって言ってた? 初めまして、クラリーよ」
握手を交わして席に着く。ジェイスが残ったデザートをクラリーの口へ運ぶ様子に、マグナスは秘かに焦っていた。あの時見た光景から、アレクはこのジェイスという青年を想っていたのではなかったか。けれど目の前の二人の様子はどう見ても。
「仲が良いんだね」
思わず滑り出た言葉に、言ってから驚いたマグナスは息を呑んだ。ジェイスとクラリーは顔を合わせると嬉しそうに微笑む。
「そう見えるか?」
ああ、と頷いたマグナスにより一層笑みを深めると、ジェイスはクラリーの頬にキスをした。クラリーもキスを返すと「恋人なの」とはにかむ。
食事を終えた二人が席を後にすると、マグナスは目の前のアレクを見つめた。なんでもないような顔でパスタを食べているが、つらくはないのだろうか。
ふと、アレクが視線を上げた。
ばち、と視線が合う。
「前に、」
「ん?」
転がり出た言葉はマグナスの意図を無視して続いていく。
「君が、ジェイスと食事しているのを見かけたんだ。偶然だったけど。君はすごく楽しそうで、見たことない顔をしてた。その、彼は君の……」
「初恋の人」
「はつこい、」
「そう。初めて好きになって、初めて失恋した相手。今は親友」
グラスワインを飲み干して、アレクがもう一度マグナスを見つめる。
「今俺が好きなのは、マグナス。君だけだ」
この数か月、幾度となくアレクが伝えてくれる言葉に嘘がないことなど疾うに気がついている。それでもアレクの口から「親友」だと聞いたことで安心している自分がいることにマグナスは驚いていた。嫉妬なんて一生縁のない言葉だと思っていたのに。
アレクの言葉に「ありがとう」とだけ返して、マグナスはスープに口をつけた。

二つの季節が過ぎ、街路樹が色付き始める頃。
マグナスの前にはやや緊張した面持ちのアレクが腰掛けていた。テーブルクロスの上にはタロットカードが並んでいる。けれどマグナスはいつまで経ってもカードを開こうとはしなかった。アレクに気付かれないよう魔術を使うこともできたが、それもしないまま座っている。
「マグナス?」
困惑したように名前を呼ぶアレクを見つめると、徐に頭を下げた。
「すまない、アレクサンダー。君を試すような真似をするべきじゃなかった」
「謝らないで。どういう意味?」
「君を見ていれば、君が本気かどうか分からないわけがなかった。私は……怖かっただけなんだ、自分が傷つくのが。前に君を占った通りだ。自分に自信がなくて、誰かと関係を結ぶのを怖がって、臆病になっていた。だから君の気持ちを受け止めるのを躊躇ったんだ」
「マグナス…‥」
でも、とマグナスは視線を上げた。真っ直ぐにアレクを見る。
「もう逃げたくない。君の気持ちからも、自分の気持ちからも」
「……うん」
「君が、家族や友人を大切にするところが好きだ」
アレクから届く写真の中に時折混じっていた彼らと写っているものは、どれも眩しい笑顔に溢れていた。
彼らを紹介するアレクの言葉にも愛に満ちていて、それはマグナスをも笑顔にさせた。
「それに、仕事を疎かにしないところも。私の仕事を尊重してくれたことも嬉しかった」
仕事の邪魔はしたくないから、と差し入れてくれたものはいつだってマグナスの好きなものだった。他愛ない会話の片隅に出たものを覚えていてくれたのかと、お茶を飲んだり、花を見たりする度に思い出しては心が温まるのを感じていた。
けれど語りながらも、マグナスは何かが違うと思った。アレクの人柄を好ましいと思う。それは嘘ではない。けれど伝えたいのは、もっと――
「……愛してる」
思わず唇から滑り落ちた言葉。
「君を愛してる。アレクサンダー」
口にする度に胸に実感が湧く。心を熱くする言葉。あの日パーティで彼を目にした瞬間、心に湧きあがった歓喜を忘れることなどできない。見ないふりをしていたって無駄だ。彼が、アレクサンダーが、マグナスの運命なのだから。
「マグナス」
驚きの眼差しで見つめられる。居ても立ってもいられずマグナスは立ち上がるとアレクの方へ身を乗り出した。手をついた拍子にカードが崩れるのも構わず口付ける。押し付けるだけのキス。一度離れた唇を今度はアレクが追いかけるように口付けた。触れるだけではない。唇の間に舌を差し込まれる。最早拒む理由がなかった。濡れた音に肩が震える。無理な姿勢に痛みを覚えて唇を離すと二人の間に細い糸が引いた。
急激に恥ずかしさが込み上げて倒れるように椅子に座る。と、アレクがマグナスの隣に立った。
差し出された手に掴まり立ち上がると腰を抱き寄せられる。
「俺も、君を愛してる。マグナス」
たった三語の言葉がこんなにも自分を満たしてくれるのかと、驚きと幸福に包まれながらマグナスは三度目のキスを受け入れた。

「今日の予約は?」
「あいにく、明後日まで空いているんだ」
そうなんだ、と笑うアレクの整った顔が近付く。
「半年分、たくさん愛させて」
「えっ」
思わずぎゅっと目をつぶったマグナスの頬に、唇が優しく触れた。予想と違う感触にそろりと目を開ける。
「……やっぱりイヤ?」
心配そうに眉を下げたアレクの頭に垂れた犬耳が見えるようで、マグナスはぱちりと目を瞬かせた。あれほどぐいぐい押してきたのが嘘のようだ。
「嫌、」
まだ言い終わっていないのに、今度は「しゅん」という擬態語まできこえてきそうな様子で肩を落としている。
(どうしよう……可愛い)
うっかりそう思ってしまったマグナスは慌てて言葉を続ける。
「嫌、とかじゃない。違う。そうじゃなくて」
「そうじゃなくて?」
「その……緊張、して」
「っ、」
すまない、と視線を落とすマグナスを思いきり抱き締めたい衝動に駆られたアレクは必死で自分を制した。せっかくマグナスが自分を信頼して話してくれているのだ。ここでがっついたらまた一からスタートになる。理性を総動員してマグナスに向き合う。
「マグナス、無理してない?」
頬を撫で、瞳を覗き込む。これまでなら返事を待たずにキスしていただろう。でも、マグナスの言葉を待つ。
アレクの葛藤を察知してか、マグナスはふと目元をゆるめた。柔らかな眼差しがアレクを見つめる。
「……大丈夫だ。君となら、したいよ」
返事と共にアレクの厚い唇を吸う。下唇をほんの少しだけ噛んでみる。
「……アレクサンダー?」
「っ、マグナス……!」
「んっ、ぅ」
アレクの口に覆われるようなキス。吐息ごと吸い取るような動きにマグナスの身体がびくりと跳ねるが、それごと抱き締めて腕の中に閉じこめた。
舌が互いの中を行き来しては絡められる。アレクがマグナスの舌を唇で吸えばお返しとばかりに同じ動きを繰り返す。唇を合わせて、歯列をなぞって、唾液を交換してはまた唇を合わせて。上顎をくすぐるように舌先でなぞればマグナスは濡れた息を漏らした。無意識のうちにアレクの頭を抱き締めていたマグナスの指に黒髪が絡む。ぐっと引き寄せて口付けていたが、ふとマグナスは何かを思い出したかのように唇を離した。追いかけて口付けようとするアレクの髪を少しだけ引っ張る。
「はぁ……っ、アレク、待って、」
「ん……?」
「ここ、仕事場だから」
「だから?」
気にせず続けようとするアレクの髪をもう一度引っ張る。
「マグナス?」
なぜ止めるんだと見つめるアレクの瞳は溢れそうな欲望を湛えている。そのままセックスしたくなる気持ちを頭を振って追い払いながら、マグナスは寝室を指さした。
「ベッドで、したい」
「……ああ」
分かった、と言うや否やアレクはマグナスの背中と膝裏を支えて立ち上がった。横抱きにしたまま部屋を後にする。
マグナスが示した寝室へ入ると窓際に大きなベッドが置かれていた。紺色のベッドカバーの上にマグナスをそっと降ろす。
アレクは両腕をマグナスの横へ着いて再びキスをした。マグナスもアレクの首に手を回して受け入れる。そうしながらアレクの器用な指がシャツのボタンを外していく。次第に露わになる肌に大きな手のひらを這わせる。しっとりと手に吸いつくような肌にアレクは興奮を覚えた。途中、胸の尖りを指先で摘むとくぐもった声が唇の中に漏れる。名残惜しげに唇を離すと互いの間に唾液が糸を引いた。マグナスの唇の端からは飲み込みきれなかった残滓がこぼれていて、ふっと笑ってそれを舐め取る。
首筋を通って鎖骨の窪みにキスを落とす。ちゅ、ちゅ、と触れる度に音を立てるのは恥ずかしそうにするマグナスが可愛いからだ。程良く筋肉のついた胸板をゆっくり通り、薄く浮き上がった腹筋の合間をぬって下がっていく。マグナスは時折声を漏らしながら自分の身体に触れていく男を見下ろしていた。思い出したように顔を上げて見つめてくるヘイゼルにぞわりと鳥肌が立つ。
アレクの指がパンツのボタンにかかったのを見てマグナスの身体に緊張が走った。触れている肌が強ばったのを感じてアレクがもう一度顔を上げる。
「……やめようか?」
労るような声音はアレクの本音だ。彼が嫌ならしない。安心できるまで待とうと決めたから。それが伝わったのか、マグナスの身体から少し力が抜ける。
「大丈夫だ。その、……君に引かれたくないだけで」
「引く?」
なんで、と言う前にアレクは察した。マグナスのそこは既に熱をもっている。アレクからしてみればキスだけでこんなに高まってくれたのは嬉しいだけだが、相手は違うらしい。視線を左右に泳がせて、目元を赤く染めて。
「可愛い。マグナス」
「かわっ、……それは年上の男に言う言葉じゃないと思うが」
「仕方がないだろ、本音なんだから。それに俺だってもうこんなだよ」
「っ、!」
同じように服を押し上げているそこを腰に当てて動かせばマグナスは耳まで真っ赤に染めた。
あの夜とは違う初な反応にアレクは目眩がしそうだ。
(……可愛すぎるだろ)
こんなふうに話しているだけでも堪らないのに、中に入れたら彼はどうなってしまうんだろう。そして自分も。早く知りたくて気が急いてしまう。
「マグナス」
「……なんだ」
「舐めてもいい?」
「うっ、……君が、したいなら」
いいよ、と言うのさえ恥ずかしいのかマグナスは自分の腕で顔を隠してしまった。恥ずかしがる様子も見たいと思うが、それはまた今度でいいかとマグナスが知ったら青ざめそうなことを考える。そんなことはおくびにも出さず、アレクは「よかった」と笑顔を浮かべた。
ボタンを外し、ジッパーを下げる。性急に下着ごとズボンを脱がせるとマグナスのペニスが飛び出した。半勃ちのそれを片手で握るとゆっくりと扱く。徐々に硬くなっていくペニスの先端へ口付けると手の中でびくりと震えるのが分かった。
何度か扱いているうちに勃起したペニスを口の中に迎え入れる。口腔内の熱さにマグナスは太股を震わせた。
「ひっ……アレク、まっ、」
「んっ、ふ……」
「っは、ぁ! な……」
じゅぽじゅぽと音を立ててアレクの頭が上下に動く。たまに先端をじゅうっと吸われ、舌で裏筋をぐりぐりと刺激される。それだけでも十分な快感がマグナスを襲った。「待って」と言葉にならない声で言うがアレクには届かない。或いは、聞こえないふりかもしれないが。
確実にマグナスに快感を与えるための動きは口だけでなく手にも及んだ。芯をもったペニスを根本から先端へ向かって強く扱く。先端は口先に含んで、尖らせた舌先が尿道口を刺激する。そのまま雁首を唇で締め付けられて、気付けば顔を隠していたはずのマグナスの手はアレクの髪に絡んでいた。抱えたアレクの頭へと押し付けるように腰が動いてしまうのをマグナス自身止められない。
目を閉じて感じ入るマグナスを盗み見たアレクはそっと片手を滑らせた。後孔をぐるりとなぞり、そっと指先を沈ませる。
「……?」
「っ、んん!」
きつく閉じているはずのそこはつぷりと指を飲み込み、マグナスは爪先を丸めた。アレクは柔らかく包み込む中へと指を差し込んでいく。人差し指はすぐに根本まで埋まってしまい、アレクは首を傾げてマグナスを見た。準備をしてくれたのなら嬉しいが、彼と会ってから行為に及ぶまでそんな時間はなかったというのに。
「あー……、ええと」
「マグナス?」
「うう、……んっ、」
アレクが内壁をそっと擦る。ペニスへの刺激とはまた違った快感に喘ぐと、マグナスはそろりと口を開いた。先程「引かないで」と言った時と同じ表情だ。
「君と……その、した後、何回か後ろで、」
自慰したんだ、と告白するマグナスは羞恥で死にそうなほど真っ赤になっている。その口で「誤解しないで」と言うものだからアレクは思わず二本目の指を挿入していた。マグナスが身体を丸めて快感に震える。
「誤解しないでって、何を? 君がすごくえっちな身体をしてること?」
「ちがっ、他の人とはしてないって、そういう」
慌てて顔を上げたマグナスにキスをする。凛とした表情の中、ヘイゼルの双眸がマグナスを見つめる。
「そんな誤解するわけない。君はそんな奴じゃないだろ」
そう言って二本の指をまとめて動かすアレクに、マグナスの指が縋るように掴まる。
「ああっ、アレク、待って、ゆび、」
「ごめん、傷つけないようにするから」
嫌な時は嫌って言って。そう告げられてマグナスは喘ぐしかなくなる。嫌なわけがない。ずっと待ち望んでいたのだから。ただ、予想していたより性急にことが進んでいるだけで。
「んっ、ふ、ぅ……っうあ、あ!」
いつの間にか指は三本に増えていて、ローションの滑りを借りて抜き差しされていた。じゅぷじゅぷと泡立つ音にさえ感じてしまう。滑りをまとった手でペニスも扱かれてマグナスの思考が緩やかになっていく。
「マグナス……ッ、入れていい? 我慢できない…っ」
切羽詰まった声にマグナスが頷く。アレクは長い指を引き抜くと前をくつろげ、自分のペニスを取り出した。何度か扱くだけで完全に勃起したそれに手早くゴムを被せ、後孔へぴたりとくっつける。ぬぷ、と先端を押し込めば吸い込まれるようにして奥へと導かれた。
「ぐ、ぅ……」
低く唸るアレクはもっていかれないように必死だ。ややきつい入り口を抜けてしまえばやわやわと内壁が絡みついてくる。半年ぶりの快感に全身が震える。背筋を駆け上がっていくぞわぞわした感覚に、アレクは腹筋に力を入れることで耐えた。
半分以上マグナスの中に埋めて一度大きく息を吐く。絶頂の快感をやり過ごして目を開いたアレクだったが、マグナスの様子に目を見開いた。
マグナスの瞳からは大粒の涙がぽろぽろとこぼれていた。涙はあとからあとから溢れて耳の方へと伝っていく。マグナス自身も呆然としていて、嫌だとか痛いとか、そういう言葉も出てこない。それがアレクを余計に焦らせた。
「っ、ごめん、今抜くから」
「嫌だ」
「――っ、え? ……っう、…マグナス?」
マグナスの脚がアレクの腰にかかる。引こうとしていた動きを制するようにきつく引き寄せられてアレクは思わず呻いた。両手をシーツについて倒れ込まないようにするが、マグナスは涙を流したままアレクのことを見上げている。
「抜かなくていい。いかないで」
大丈夫だから、と言うマグナスの眼下をそっと拭う。
「本当に? 無理はしないでくれ」
「無理じゃない。大丈夫だ。ただ、……」
「ただ?」
「君が、中にいるんだと思ったら嬉しくて」
微笑んで下腹部を撫でるマグナスの姿に、アレクは低く唸る。肉体的な快感と精神的な満足感に今にでも達してしまいそうになる。
「アレクサンダー、その、」
中でさらに質量が増したのを感じたのか、マグナスがアレクを見上げる。
「……ごめん、痛かったら言って」
「え、……っ、あ! なっ、アレク、あ、あ!」
謝罪の意味を考える暇も与えず、アレクの猛った切っ先がマグナスの中を突き上げた。大きく広げた脚の間に身体を割り込ませる。腰を打ち付ける度に宙に浮いたマグナスの脚が頼りなく揺れる。ふと下から伸ばされた腕が首の後ろに回ると、ぐっと引き寄せられた。マグナスからアレクへと口付ける。息が苦しくなるのも構わずに唇を合わせ舌を絡める。抽挿のリズムに合わせて上がる声はアレクの口の中へ吸い込まれていく。
「っふ、う、ぅん、んっ、ん、あ、アレク、ぅ、んっ、はぁ」
「マグナス、マグナス……っ」
高みに昇りつめようと律動の速度が増していく。マグナスも自身のペニスを握るとアレクの動きに合わせて扱き始めた。互いの吐息と水音しか聞こえなくなる。
「んっ、ん、ん、アレク、あれく……っ、ぅ、……!」
先に限界を迎えたのはマグナスの方だった。ぎゅうっと絞るようにペニスを握り締める。勢いよく飛び出した白濁はマグナスの象牙色の肌を流れていった。その様子を見下ろしていたアレクもこみ上げる射精感に再びマグナスの太股を掴む。より奥へと腰を押しつける。勢いよく腰を打ち付け、肌のぶつかる音が激しくなる。限界はすぐに訪れた。
「――っ、マグナス、ぐ、ぅ……っ!」
低く唸り、アレクが伸び上がるようにしてマグナスに口付ける。その瞬間、アレクの下でマグナスの身体がぶるりと震えた。スキン越しに熱が広がるのを感じて熱い息を吐く。アレクもまた大きく息を吐いた。
わずかな隙間もないほどに抱き合っていた二人だが、アレクは身体を起こすとずるりと屹立を抜いた。ぐちゃぐちゃになったスキンを外す。中には大量の精子が吐き出されていたが気にせず口を縛ってティッシュにくるむ。無駄のない動きを横たわったまま見ていると、アレクはマグナスの方へと手を伸ばした。無意識のうちに掴んだ手を引かれマグナスも身体を起こす。
「アレクサンダー?」
「こっちだよ」
ベッドヘッドへもたれ掛かるようにして座ったアレクは、長い足の間へとマグナスを誘った。首を傾げながらも移動したマグナスを後ろからだき抱える。
後ろから入れるのかと思いコンドームを手にしたマグナスだったが、アレクの指に取り上げられてしまった。再び首を傾げるマグナスの耳元にアレクは唇を寄せる。そしてマグナスの好きな声で囁いた。
「君が自分でしてるところを見たい」
え、と口を開いたまま固まるマグナスに「ダメ?」と聞くアレクは、返事がイエスしかないことを知っている顔だ。困ったような声にも、微笑みにも、多くの人間が絆されてきたのだろう。マグナスも例に漏れず、うっかり頷いてしまった。
「するのはいいが、……この向きだと難しい」
「どうして?」
太股を撫でる感触に声を震わせながら「この格好でしたことがないから」と答えると、アレクは指先を内側へと向けて問いを重ねた。
「いつもはどうしてる?」
「後ろ向きで……」
「それじゃあ向きを変えよう」
「え? う、わっ」
腰を抱えて持ち上げられる。そのままくるりとひっくり返されて、マグナスはアレクと対面して座った。
「これでできるだろ?」
笑顔を向けられて、「見せて」と頬にキスされて。「恥ずかしいなら俺もしようか?」とまで言われたら後には引けず、マグナスはそっと指を後ろへ伸ばした。
先程までアレクの長大なペニスを受け入れていたそこは閉じているものの、マグナスが指先を埋めるとゆっくり飲み込んでいった。最初こそ狭さを感じるが、一度入れてしまえば内壁は柔らかく受け止めてくれる。
何度か出し入れするうちにひっそりと膨らんだ場所を指先が引っかいた。思わず声が出そうになって唇を噛む。一人でする時も声はあまり出さないが、今のマグナスは体内からわき上がる快感と同時に、まじまじと見つめるヘイゼルからも逃げ出したくなってしまう。
マグナスが声を抑えていることに気付いたアレクは下唇を撫でてから触れるだけの口付けをした。
「君の声、聞きたい」
すごく興奮する。と再びキスをするアレクに、マグナスはかあっと赤くなり首を振った。自慰を見せるのだって恥ずかしいのにその上喘いでいるところまで? 散々恥ずかしいところを見られているがマグナスはもう限界をとっくに越えている。小さく「ごめん」と答えたマグナスにアレクはそれ以上要求しなかった。膝が震えるマグナスを抱き寄せる。アレクの肩に頭を預けて、マグナスは二本目の指を挿入した。細い指では足りないとばかりに内壁が蠢く。眉根を寄せて、噛みしめた唇の隙間から熱い吐息がこぼれる。
「ぅ……っく、ふ……」
「マグナス、足りない?」
「ぅん、んっ」
抱きついている腕に力がこもる。それを肯定と捉えたアレクは、マグナスの指の隣に自分のそれを添えた。太さの違う三本の指が一気に埋め込まれる。
「っぅあ! ひ、や、あっ!」
じゅぷ、と中のローションが押し出されて太股を伝い落ちる。その感覚にも背中を震わせたマグナスは、一度声を出してしまえば止まらなくなったのか口を開いたまま高い声を上げた。
「アレク、っ、そんな激しくしな、っあ!」
「ゆっくりする方が好き?」
「そ、じゃな、けどっ、はっ、ぁ、自分で、するとき、ゆっくり、だから、ぁ」
時折気持ちいいところに当たるのか、喘ぐマグナスの口から流れた唾液がアレクの肩へ落ちる。たまらずマグナスの頬を支えて起こすとアレクは噛みつくようにキスをした。舌を迎え入れる口腔内は先程よりも熱く甘い。一度達したはずのアレクのペニスも、既に腹につきそうなほど硬くそそり立っている。
「マグナス、中に入れて」
耳元へ吐息ごと吹き込む。ぶるりと身体を震わせてマグナスはアレクを見た。
「んっ、ふ、ぁ、なか……?」
「そう。君のここに俺のを入れたい。俺ので奥の気持ちいいところ、もっと擦ってあげたい」
そう言って増やした指で痼りを押しつぶす。
「っひぅ、んん……! んぁ、ああ、欲しい」
予期した快感にマグナスはこくこくと頷く。指では届かないところを擦ってほしい。突き上げてほしい。眼下に揺れるアレクのペニスは気のせいか先程よりも大きくなっているようで、それが内壁を押し広げていくのを想像したマグナスは背筋を何かが這い上がっていくのを感じた。
じゅぽ、と音を立てて二人の指が抜ける。もう一度アレクの肩に手を置くと、マグナスはもう片方の手を後ろに回してアレクのペニスに触れた。先端をアヌスに当てると息を吐きながら腰を下ろしていく。何度か滑ってしまったものの、アレクがマグナスの臀を割り開いてやるとついに望んでいたものが入ってきた。
狭いナカを押し拡げられる感覚にマグナスが喘ぐ。自重によって先程よりも深く飲み込んでいく。塞がっていた場所を拓かれる感覚はこれまで味わったことがないもので、マグナスはアレクにしがみついた。黒髪を抱き締めるようにするとアレクの眼前にはちょうど胸の尖りが見えていて、思わずそこに舌を伸ばす。
「っひ、ぃ……! まっ、あれくさんだー、まって、そこ……!」
舐めるだけで快感を拾ってしまったのか、マグナスの腕に力がこもる。引き寄せたわけではないと分かっていながら、アレクは胸の粒を口の中に含んだ。唇でやわく食んだり、舌先で転がしたりして反応を見る。目に見えて悦さそうな表情をするからアレクもつい愉しんでしまった。反対側の突起は手のひらで押しつぶしながら転がしてやる。もう片方の手はマグナスのペニスを扱いて、ナカは剛直が突き上げて。あちこちから快感の波が襲ってくるマグナスは最早言葉にならない声で喘いでいる。
「はぁっ、あ、ぅん、あっ、あ、あ……っ!」
アレクを抱き締めたまま背中を丸めたマグナスの身体が大きく跳ねる。びくびくと何度か震えた後、アレクの手の中にあるペニスからは精液がどろどろと溢れてきた。
ゆるやかで長い射精はじわじわと内壁の収縮を誘う。根本から先端へと精液を搾り取ろうとする内壁の動きになんとか耐え、アレクはマグナスの腰を掴んだ。隙間を埋めるように下からペニスを押し付ける。マグナスが呻く声が聞こえたが最早止まれなかった。
腰を引き、突き上げる。何度も何度も。内壁が、押し込んだペニスを受け入れては抜こうとするのを引き留めるように吸いつく。その感触は何にも代え難い。
じゅぷ、ぐちゅ、と液体が混ざる音の中、ぱちゅぱちゅと肌のぶつかる音が激しくなっていく。
「っは、はぁ……マグナス、……っマグナス、君のナカ、凄い…っ」
「……っ、ぁ、……、っ……!」
声にならないマグナスの吐息がアレクの腰を重くする。陰嚢からせり上がる感覚にアレクはペニスを抜くと急いでゴムを外した。自分の手で強く擦る。数回扱くだけで先端からは濃い白濁が溢れマグナスの腹筋を汚した。重力に従って下腹部に降りていくそれをアレクは指先で拭うとマグナスのアナルに擦り付けた。マグナスが細く喘ぐ。達したばかりのペニスをそのまま挿入すると精液を塗りつけるようにして奥へと押し込む。膜越しではない感覚を目を閉じて味わうと、腕の中のマグナスは力が入らないのかアレクにもたれかかってきた。

「……最高だったよ、マグナス」
「……ん、……」
荒い息を整えようとしているがうまくいかないらしい。涙の痕が残るまなじりに口付けながらマグナスが落ち着くのを待っていると、ゆるりと開いた瞳がアレクを映した。疲れの色は濃いものの満足した様子のマグナスにアレクもまた表情を和らげる。
「君はどうだった?」
「……最高すぎたよ」
今まで感じたことがないくらい、と呟くマグナスに、アレクは綺麗な笑みを浮かべた。
「それは良かった」
「……え?」
マグナスの目が驚きに見開かれる。アレクの言葉にではなく、体内に埋まっているそれが再び中を押し拡げ始めたからだ。
「半年分って言っただろ?」
付き合ってくれる? と笑顔で近付いてくるアレクの唇を受け止めながら、マグナスは翌日の予定が無いことにただただ感謝した。
***

「父が君に会いたいと言っているんだ」
迷惑じゃなければ会ってほしい、と控えめに言われて、アレクは目を見開いた。父親。マグナスの。一瞬の思考停止。これまでに数々の出会いを経験してきたが、彼らの家族に会ったことはない。必要なかったからだ。だから、マグナスの言葉を嬉しく思う気持ちと同時に緊張が走った。マグナスのことを愛しく思う気持ちに変わりはないが、彼の父親が自分とマグナスとの関係をどう思うか、不安が浮かんでは消える。
ジェイスやイザベルが見たら柄にもない兄弟の様子に、目を丸くするか笑うかしただろう。けれど「迷惑なら断ってくれて構わないよ、アレクサンダー」と目の前で不安げに瞳を揺らす恋人の姿を見たら、自分の不安なんてどうでも良かった。
「迷惑だなんて。俺も会えるのが楽しみだよ」
「そ、そうか」
よかった、と微笑むマグナスを見つめるアレクの瞳は優しい。
「それで、いつごろの予定?」
「ちょっと待って。聞いてみるから」
テーブルに置いてあった端末をマグナスが操作するや否や返信が届いたようだ。マグナスは驚いた顔でアレクを見上げる。
「ええと、今から来るって……」
「今?」
いま、という声に重なるようにしてドアが開く。長身の男はしなやかな身のこなしで室内へ入ると、驚きに目を見開くマグナスをきつく抱きしめた。
「やあ、私の可愛い息子。元気だったかい?」
「父上!?」
「彼が?」
あの日、遠目に見たマグナスに寄り添う長身の男は彼の父親だったのかと予想外に解けた謎にこっそり安堵するアレクの隣で、二人はまだ親密そうに抱き合っている。ようやく抱擁をほどくとアスモデウスはマグナスの肩を抱いたまま振り返った。息子の恋人になった男を上から下までじっくりと眺める。アレクが口を開く前にアスモデウスが手を差し出した。
「会いたかったよ。可愛い息子を泣かせた色男君?」
「泣かせた?」
差し出された手を握り返して訊くのをマグナスは慌てて否定する。
「泣いてません!」
「マグナス、照れることはないだろう? 私としても息子が幸せなら何も言うことはないよ」
これからもよろしく、と微笑まれるがアレクの頭は別のことが占めている。
「泣いた? いつ?」
「アレクサンダー……忘れてくれ……」
マグナスは困った顔で腕を掴むが、アスモデウスは息子のことを話したくて仕方がないらしい。
「いつだったかな……以前、息子と食事に出かけた先で君を見かけてね。君がレストランで美しい青年と食事しているのを見てどうもショックを受けたらしい。足早にその店から離れようとする息子の目に涙が浮かんでいるのを見て、ああ彼は失恋してしまったのかと気に病んでいたんだ。だからまた食事でもと思って連絡をしたら君と付き合っていると言うじゃないか。 これはもう早く会わなくてはと思ってね」
「父上……!」
「金髪? ジェイスのことか?」
ああもう、と羞恥心から両手で顔を覆うマグナスをじっと見つめる。恐らくアスモデウスが話しているのはアレクが彼らを見かけた日で間違いないだろう。半年以上前のことだ。ということは……思い至った考えにアレクは薄く微笑む。
「あの時から気になってた……?」
「そうでなければ泣かないだろう」
さらりと言う父の言葉にアレクの笑みが深くなる。
「父上、急なことですからまた改めて来てください」
これ以上は耐えられないとばかりに言うマグナスをアレクが笑顔で止める。
「マグナス、せっかく来てくれたのに急ぐこともないよ。どうですかお義父さん、食事でも一緒に」
「おや、いいのかい?」
「勿論です。息子さんのこともっと聞かせてください」
マグナスの奮闘虚しく、その日のランチはアスモデウスによる写真映像つき息子語りの会となった。
***

木製の扉が僅かに軋む。ラファエルがグラスを磨く手を止めて見上げると、そこには馴染み客二人が立っていた。カウンターの奥、いつもの席に腰掛けるマグナスと並んでアレクも腰を下ろす。
「おめでとう」
「ありがとう」
「まだ何も言ってない」
礼を返すアレクの隣で目を円くするマグナスにラファエルは苦く笑った。自分たちの醸し出す雰囲気が随分変わったことに気付いていないのだろうか。
「見れば分かります。というか、ずっとアプローチを受けていたでしょう」
「アプローチ?」
またしてもマグナスが首を傾げる。これは苦労しそうだと思いながらシャンパングラスを取り出した。
「彼が頼んだカクテルを覚えてますか」
クレーム・ド・カシスを静かに注ぎながらマグナスに訊く。
「……? すまない、あまり覚えてなくて」
首を振るマグナスを見つめるアレクの瞳は優しい。彼は色々と承知の上であの夜注文をしていたのだろう。自分が伝えてもいいものかと一瞬視線を送るが、微笑みだけ返された。ワインクーラーからスパークリングを一本取り出す。それぞれのグラスに注ぎながら、ラファエルは話を続けた。
「カクテルにはそれぞれ込められた意味があって……カシスソーダは『貴方は魅力的』、エンジェル・ティップは『あなたに見惚れて』、アイオープナーは 『運命の出逢い』。それがあの夜彼がオーダーしたカクテルの意味です」
「運命の……」
「これはお二人へのプレゼントです。どうぞ」
微細な泡が立ち上る真紅のシャンパンにマグナスは見惚れる。
「……これは?」
「キールです。カクテル言葉は『最高の巡り逢い』」
あなたたちにぴったりでしょう?
そう言ってラファエルは微笑んだ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です