SS集16~20

「ラウダ!」
兄の声が聞こえた。まだ幼い頃の声が。差し出されたのは小さな手。弟へ、めいっぱい広げて。
「兄さん、まって…!」
おずおずと伸ばした手が掴む前に兄は走り出す。いつだってラウダが見つめるのは兄の背中ばかり。記憶に鮮やかなあの日も、そして今も。
支えたいと、並び立ちたいと願うのに、兄は決してそうさせてくれない。幼い瞳が、鋭さを増した視線が振り向かぬ背を見つめている。

 

泣いて、泣いて、泣いて、涙なんてとうに枯れ果てたと思っていたのに。マグカップふたつ手にして兄のもとへ戻る。いつものスーツは脱ぎ捨ててラフなシャツに身を包んだ兄はソファに背を預けていた。ラウダの姿に気付き顔を上げる。漂うミルクと蜂蜜の香りに頬を緩めた。かつてグエルが弟のために作ったレシピだ。「らうだ」ふにゃりと、力の抜けた笑顔にラウダの足が止まる。鼻の奥がツンと痛むのを我慢したけれど無駄な努力で、またしても涙が溢れてきた。

 

「ラウダ……?」開口一番、グエルはその名を呼んだ。扉の前に経つ少年はどう見ても十歳前後。けれどあまりに顔立ちが異母弟に似ているものだから、グエルは戸惑いと共に立ち上がった。ふらり、入口まで歩を進める。しゃがみ込んで目線を合わせると、やはり弟と同じ琥珀がこちらを見つめてきた。「……兄さん」「ああ」応えれば、子供の瞳が安堵に和らいだ。そうっと伸ばされた手、その指先が袖を小さく摘む。「ぅわ…っ!?」突然の浮遊感。抱き上げられたのだと気付き、ラウダは腕の中で兄を見上げた。大好きな兄は大きくなっても格好良いままだ。無言のまま見つめてくるラウダを抱きながら、グエルは誰を頼るべきか思考を巡らせた。

 

「ラウダ!」本を読んでいたら突然兄さんが入ってきた。表紙を閉じてテーブルに置く。なんだか目がきらきらしてるし、わくわくしてる。何か良いことがあったのだろうか。「どうしたの、兄さん」「今見たんだけど、ちょっとやってみてもいいか?」「いいけど、何を?」「鼻キス!」「はなきす……」鼻に、キス。意味は分かったけどなんでまた。「大切な人に「大切だ」って伝える時にするんだって」「大切……」呟く間に兄さんがどんどん距離を詰めてくる。キスは恋人同士がするものだけど、鼻にキスなら大丈夫なのかな。兄さん、またちょっと背が伸びた。あれ、目元にほくろなんてあったかな。今日も兄さんの目は透き通るガラス玉みたいに綺麗だ。あ、睫毛、長い……「……兄さん」「うん?」「ふつう、目を閉じるものじゃない?」「だってラウダの目が蜂蜜みたいに溶けそうでさ」綺麗だったから、閉じるの忘れてた。なんて言ってのける兄さんに、くらり、目眩がした。

硬い音が室内に響く。とうに社員も秘書も帰した部屋で、グエルは大きくその眼を見開いた。唇に触れた熱。乾いた感触。つい今しがた弟に仕事を終わらせるよう提言され、あと少しなと返したばかりで、それが何故。「……ん、」ちいさく音を立てて離れた弟は、ほんの少し低いところからグエルを見上げる。その顔が真っ赤に染まるのをグエルは瞬きしながら見つめていた。

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