早計にゃんステップ

「兄さん?」
開いたドアの先に呼びかける。返事はない。まだ朝食に遅れるような時間ではないが、「入るよ」と声をかけるとラウダは足を踏み入れた。ベッドは綺麗に片付けられ、制服の上着はクローゼットにかかったまま。端末は枕元のホルダーに収まっている。室内を見て回っても、兄の気配はあれど姿が見えない。
「兄さん……?」
再び呼びかけた声に、今度は小さな声が聞こえた。
にゃあ。
「……『にゃあ』?」
首を傾げたラウダの足下にするりと柔らかいものが巻き付く。
肩を揺らして視線を落とすと、夜色のかたまりがそこにいた。柔らかく、温かい。
しゃがみ込んでみるがかたまりは逃げることもない。
「猫……?」
返事をするように、にゃあと鳴いた。
あまりにも落ち着いてそこにいるのでラウダもまじまじと観察してしまう。艶やかな濃紺の毛並みは野良に見えず、一対の瞳は蒼穹を思わせるガラス玉のようだ。前髪のあたりに一房、薄桃色に染めたような毛が揺れているのを見た瞬間、ラウダの脳裏を一つの考えが過った。
あまりに荒唐無稽。けれど兄の姿は室内になく、どこかへ出かけるという連絡も届いていない。
一つの可能性を捨てきれず、ラウダはじっと蒼穹を見つめた。たっぷり躊躇った後、そっと呼びかける。
「…………にいさん?」
「にゃあ」
頷いた、ように見える。
「本当に兄さんなの?」
「うにゃ」
前足で薄桃色の前髪を弄る仕草に兄を思い出す。
ラウダが抱き上げようと両手を胴体に回しても猫は逃げようとしなかった。どころか、ゆっくり抱き上げたラウダの手をざらりと舌で舐める。
(――これは)
パーメットの影響だろうか。
だがこれまでに報告されたことのない事象に、半信半疑で首を傾げる。ラウダがそうするのに合わせて猫――仮にグエルとしよう――もことりと首を動かした。可愛い。
「あっ、違うんだ兄さん、今のは兄さんが可愛いというわけじゃなくて、ええと」
常々ジェタークの男たる者はと言ってはばからない兄は「可愛い」より「格好いい」という評価を望んでいた。寮内において影でグエルを「可愛い」と言う者たちもいないわけではないが、それが純粋な好意からくるものの場合のみラウダは目こぼしをしている。純粋でない場合はそれなりの制裁を。
誰への言い訳なのか、そもそも目の前の猫が人間の言葉を解しているのか不明瞭ではあるが、ラウダはごめんねと謝った。
「そうだ、おなか空いてる? 朝ご飯まだだよね?」
そういえば兄を朝食に誘いに来たのだったと思い出す。けれど猫を連れて食道へ行くわけにもいかない。
「猫ってそもそも人間と同じものは食べないよな……? ミルクなら飲む、か?」
昔読んだ物語では、牛乳や魚を餌として与えていた。魚はここにないが、牛乳なら備え付けの小さな冷蔵庫にあるかもしれない。
猫が忍び込んだにしても、グエルが何かしらの影響で猫に変身したにしても、冷静に考えればおかしな状況に変わりはない。だがラウダはかぶりを振ると猫をベッドの上へそっと下ろした。
「ええと、これはプロテイン。こっちは……こっちもプロテイン? 兄さん、また新しい味を試そうとしたのか。結局気に入ったやつしか飲まないのに。……ああ、これか」
低脂肪の文字はあるが問題ないだろう。シェイカーの蓋を逆さまにして中身を注ぐ。
ラウダの様子を猫は大人しく見守っていた。
「はい、兄さん。口に合うと良いんだけど」
ベッドの端に腰掛け、零れないように気をつけながら蓋を膝のあたりで支える。そろりと近寄ってきた猫は匂いを確かめるように数回鼻先を近付けると、少しずつ舐め始めた。ラウダはピンクの舌が見え隠れするのをじっと見つめる。
艶々の毛並みが気持ち良さそうで静かに手を伸ばすと猫は一瞬驚いたように固まったが、背中を優しく撫でる手つきが気に入ったのか再びミルクを舐めた。手のひらに感じる生き物の温度はラウダがあまり体験したことのないものだ。それこそ、幼い頃兄と手を繋いだ時以来かもしれない。
「兄さん、もし元の姿に戻れなかったらどうしよう……?」
「んにぃ」
不安な気持ちとは裏腹に撫でる手は止まらない。だってあまりにも心地良い。
蓋の底が見えてきたところで勢いが止まる。おそるおそる指先を喉の下へ動かすと「もっと」と言うように押し付けられ、ラウダはいつか読んだ知識を思い出しながら擽るように撫でた。ぐるる、と気持ち良さそうな声が喉の奥から聞こえてくる。
もしかして、兄もこうして誰かに甘えたい時があったのだろうか。
(――そんなわけない。兄さんは強くて、格好良くて、たまに面倒くさい時はあるけどでも、)
馬鹿な考えを追い払うように首を振る。指が止まったことへ抗議するようにぐりぐりと手の中へ頭を押し付けられてラウダは眉尻を下げた。
「猫の姿なら甘えられるの? 兄さん」
「ラウダ?」
その時だった。
聞き馴染んだ声が、ラウダの名を呼んだのは。
「……にい、さん?」
ぎぎぎ、と錆びたブリキが軋むような動きでラウダの首が曲がる。向けた視線の先、ドアの前にはラフな服装にタオルを持ったグエルが立っていた――どこか困ったような、照れたような、なんともいえない表情で。
「ッこれは! 兄さんの! 部屋に! 猫が!」
「あっ、ああ。落ち着けラウダ、なんで猫がいるのかは分からんが、落ち着け」
猫を挟んで反対側のベッドへ腰掛けると、グエルは視線を落とした。確かに猫がいる。
弟は「兄さんが、猫が、猫が兄さんで、でも違って」と混乱しているようなのでひとまず後ろから猫を抱き上げた。暴れるかとも思ったが、そのまま膝に座らせると猫は大人しく収まった。
「ラウダ? 何があった?」
「……朝食を」
「ああ、誘いに来てくれたのか。ありがとうな。それで部屋を開けたらこいつがいた、と」
こくりと頷くラウダの耳が赤い。弟がどんな勘違いをしたのか察したものの、グエルは敢えて触れずに両手で猫を抱き上げた。
「おまえ、どこから来たんだ?」
「なぁう」
一緒になって首を傾げる仕草に思わずラウダの心臓が跳ねる。だがこれ以上の失態を兄の前で披露するのは避けたかった。カウントしながら呼吸を繰り返す。
「地球寮のやつらが動物を飼育してるとは聞いてるが、猫がいた記憶はないんだがな」
「にゃう」
「朝食に行きがてら飼い主を探してやるか」
な、とラウダに笑顔を向けると、なぜか弟は再び赤面したのだった。

 

「ラウダ先輩ラウダ先輩ラウダせんぱーい!」
「フェルシーうるさい」
「だってペトラ、気になるじゃん!」
「……気持ちは分かるけど、迷惑なのはやめな」
「はーい。ラウダ先輩、グエル先輩そっくりな猫拾ったってほんとですか!?」
「どこからそんな噂が?」
「朝から寮生が話してます! で、その猫ちゃんどこにいるっスか?」
「ここにはいない。兄さんが元の場所へ返しに行った」
「ええ~、見たかったなあ。グエル先輩似の猫ちゃん」
「ラウダ先輩、その、失礼でなければどのあたりがグエル先輩とそっくりだったのか聞いてもいいですか……?」
「……似てない」
「え?」
「兄さんとは、似ても似つかない猫だった」
「えー!? でも見かけた先輩が『あれはグエルと見間違えても仕方ないな』って笑ってたっスよ?」
「見間違いだろう」
「ええ~」
「とにかく、兄さんと似た猫なんて、いなかった。もういいか? 兄さんも僕もこのままだと朝食を食べ損ねる」
「はぁい。騒いですみませんでした」
「行こう、フェルシー。あっ、ラウダ先輩。さっきカミル先輩がお二人の分の朝食も受け取って奥の席で待ってるって言ってました」
「そうか、ありがとう」

「ペトラぁ、なんで止めたの?」
「フェルシー、ラウダ先輩の目が泳いでたの見た?」
「ううん?」
「あれは気まずいことがあったからだと思う。ラウダ先輩、グエル先輩そっくりの猫、はぐらかすラウダ先輩ってことは」
「あっ」
「ね?」
「うん」
「みんなにもあまり広めないように言っておかないと」
「たしかに! ……でも見たかったなあ、グエル先輩みたいな猫ちゃん」
「まあ、それは私もだけどね」
「だよね!」
「学園内に飼い主がいるならそのうち出会えるかもしれないし」
「それもそうかあ」
「そろそろ寮に戻らないと授業遅刻するよ、行こうフェルシー」
「うん!」

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