HAND IN HAND

兄さんがいない。
今日は父さんが社のフロントから戻ってくる日だからと朝からそわそわしていたのに。
(……それなのに)
虫の居所が悪かったのか、家庭教師の告げた兄さんの成績が思わしくなかったのか、父さんは苦い顔をしていた。兄さんと二人であいさつをしに行ったのに、僕だけは先に部屋を出された。こっそりと扉の前に佇んでいたのを使用人に自室へと促されたけれど、険しさを増した父さんの声が漏れ聞こえる。何かを叩くような音も。
逃げるように、自然と急ぎ足になる。短いズボンの裾をきゅっと握っても、耳に残る音は消えてくれない。
自分の部屋へ戻ってそっとドアを閉めると、窓際のソファへと向かった。去年のクリスマスにサンタからもらったライオンのぬいぐるみが、人工太陽の光を浴びながらちょこんと座っている。瞳には空色のビー玉。兄さんとおそろいの。そっと抱き上げて腰掛ける。顔を埋めるようにぎゅうと抱き締めると、なぜか兄さんと同じ匂いがした。

「…………ん、」
肌寒さに肩が震えた。知らない間に寝ていたらしい。
顔を上げると床に伸びる影が長くなっていた。
「兄さん?」
閉めたはずのドアが細く開いている。
兄さんが帰ってきたのかと急いでソファを降りて向かう。けれどそこに兄さんの姿はなかった。
『父さんが帰ってきたら、久しぶりに三人で食事ができるな!』
嬉しそうに話していた兄さん。僕は兄さんと二人で食べるのも嬉しいけど、兄さんにとっては「家族で」何かをすることにきっと意味があるのだろう。兄さんの喜ぶ顔が見たくて僕も頷いた。料理長に夕食のメニューは父さんの好物にして、とお願いにも行った。それなのに。
「兄さん、どこに行ったの……?」
さっきの声は、たぶん、父さんが兄さんを叱ったものだ。
それに、言葉だけじゃない。きっと。予想が外れてほしいと思うけど、今までのことを考えたら残念ながら当たっているだろう。僕にとって兄さんは優しくて、格好良くて、強くて、誰にも負けない自慢の兄さんだけど、父さんの目に映る兄さんは時々そうじゃなくなる、らしい。僕につらく当たることがないのは多分僕が「外の子」だからだ。どうでもいい。兄さんが哀しい思いをしてなければ、それでいいのに。
屋敷の中をあちこち探して歩くのも慣れてしまった。だって、父さんが兄さんを叱るのも叩くのも、今日が初めてじゃないから。
兄さんがよく隠れる廊下の隅っこ。今日はいない。
毛布をかぶって丸くなるベッド。ここにもいない。
なぜかアナログな地球の古時計の脇にも、前庭の植え込みの影にも、温室の白いベンチにも、兄さんの姿は見当たらなかった。
天体パネルが夕焼け色に変化していく。
暗くなる前に見つけたくて息が上がる。ふと、屋敷に来た頃兄さんから「ここは入っちゃダメだ」と言われた部屋の存在を思い出した。詳しくは聞かなかったけれど、そこが兄さんのお母さんが使っていた部屋だろうと気付いたのはいつのことだったか。兄さんの部屋から三つ空けて、廊下の一番奥。もしも兄さんがいたらと思うと足の進みも慎重になる。
いつもはぴったり閉じているドアが、ほんの少し開いていた。
(兄さん……)
ドアの影に隠れるようにして近付く。気付かれないよう、そうっと隙間へ顔を近付けた。廊下も薄暗くなってきているからか、暗い室内がぼんやりと見える。部屋の中の家具には白い布がかかっていた。ソファ、テーブル、背の高いチェスト、広いベッド。
ベッドの下で、もぞりと小さな影が動いた。
(兄さん!)
思わず叫びそうになった声を呑み込む。両手で膝を抱えてうずくまった兄さんの肩がひくりと震えていた。
勝手に部屋へ入ることも、兄さんと声をかけることもできない。だけどそのまま兄さんを放って戻ることもできない。
(……どんな顔をしてるんだろう)
不意に、そんなことを思った。思ってしまった。
今は兄さんのことを心配するべきなのに。
その時だった。きゅっと手を握り締めて、兄さんが顔を上げたのは。
(――……ッ!)
左頬がうっすらと腫れているのが見えた。やっぱり父さんに叩かれたんだ。冷やすものを用意しなきゃと思うのに体が、視線が、固まったように動かない。
僕に気付かない兄さんは潤んだ瞳を誤魔化すようにごしごしと手の甲で擦っている。赤くなった目元に、きゅっと引き結んだ唇に、小さく震えた肩に、目が釘付けになった。まるで見てはいけないものを見てしまったように。
(……痛い)
お腹が、いや、お腹の下の方が、突然痛くなる。思わず両手でお腹を押さえた。
(お腹じゃない……?)
お腹を冷やした時とは違う痛みだった。じくじくと、じわりと、下から沸き起こるような不思議な感覚。
「っ、……なんで、え……?」
つい最近、家庭教師から教わったものと似ている。でも、なんで今、こんなところで。
隠すように慌ててドアの前から離れて自分の部屋へと急いだ。廊下は歩くようにって兄さんから教わったけど今はそれどころじゃない。自分の部屋へ飛び込むとバタンと音を立ててドアを閉める。
「っ痛、どうして、どうして……!?」
頭の中をぐちゃぐちゃに引っかき回されたみたいだ。鎮まれ鎮まれと祈りながら下半身を押さえる。それなのにそこはどんどん熱くなるし、さっき見た兄さんの顔が離れない。
「やだっ、やだ、なんで」
隠れるように自分のベッドへよじ登ると頭から毛布をかぶった。芋虫みたいにまんまるくうずくまる。一生懸命深呼吸をするのにそこは全然収まらなくて、むしろ兄さんのことを思い出すほどに手の中で硬くなっていく。なんで、と呟く。だって、先生は好ましい人のことを考えると性的興奮を覚えるって言ってた。好ましい人。好きな人。兄さんのことはもちろん好きだけど、先生が言ってたのは多分そういう「好き」じゃない、はず。僕が兄さんのことを好きなのは兄さんが僕の兄さんで、家族で、大切にしてれて、それで。――それとも。
「兄さんを、好き……?」
口にしてしまえば、当たり前のことのように響く。
「うぅ……」
じくじくと痺れるような痛みが再び湧き上がる。布ごと押し上げたそこは完全に勃起してた。先生がテキストで教えてくれたのと同じように。でもこんなに苦しいなんて、お腹も、心臓も痛くなるなんて、知らなかった。
「にいさ、兄さん、すき、好き……っ」
両手を下着の中へ潜らせる。ぐちゃっと濡れた感覚。温度の上がったそこを握って無理矢理手を上下させる。先端から溢れた先走りが手の中で広がってぐちゃぐちゃと音を立てた。
兄さん、好き。兄さん。兄さん。熱に浮かされたように何度も呟く。毛布の中だから誰に見られることもない。誰かに聞かれることもない。絶対に、知られないようにするから。僕だけの秘密にするから。
擦るほどに腰がじんと痺れていく。吐き出した息がこもって熱い。でも手を止めることはできなくて、ぎゅっと目を瞑るとさっき見た兄さんの濡れた瞳が――僕を、見た。
「――ッん、兄さん、兄さんっ!」
びくびくと全身が震え、きつく握り締めた手の中からどろりと液体が流れてきた。これが精液か、とぼんやりした頭で授業を反芻する。息を整えるようにゆっくり吐き出すと急激に思考が冷めていくのが分かった。
(……最低だ、僕)
兄さんをおかずに抜いてしまった。けれど最中に気付いた心の真実は驚くほど静かに自分を納得させた。兄さんをからかうのを楽しむシャディクに苛立っていたのも、兄さんのことを馬鹿にするようなミオリネが嫌いなのも、今思えば無意識のうちに嫉妬していたからだろう。
手の汚れをつけないよう気をつけながら毛布をばさりと落とす。ベッドサイドのティッシュを数枚取って手と下半身を拭くともう一枚のティッシュにくるんでゴミ箱へ捨てた。あとは汗をかいたから着替えたと言えば良いだろう。手早く服を着替えて洗い物をまとめてカゴへ入れておく。
と、そこへ遠慮がちなノックが聞こえた。
「ラウダ、いるか?」
「兄さん」
気付かれない程度に急いで窓を開けてから、ドアへ向かう。そこにはまだ目尻の赤い兄さんがいた。頬の腫れが引いてるのは少しでも冷やしたからかな、良かった。視線がきっちり合わないのは泣いていたのを知られたくないからだろう。僕もさすがにさっきの今で気まずいから、ちょっと助かった。
「その、もうすぐ夕飯の時間だから一緒に行こうと思って」
「迎えに来てくれたの?」
うん、と頷く兄さんが手を差し出す。嬉しい。すぐに繋ごうと出しかけてはっとする。
「ちょっと待ってて、さっき手が汚れちゃったから洗ってくる」
「おっ、おう」
なんで兄さんまでちょっと慌ててるんだろう。
急いでソープを泡立てる。きれいに洗って、きれいに拭いて、これなら大丈夫。
「兄さん、行こう」
差し出した手を兄さんが力強く掴む。温かい。
兄さんへの気持ちはきっと一生胸に抱いて生きていく。でも、今この手を掴めるならそれで良かった。

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