兄に案内された自室は少ないラウダの荷物をすべて散らかしても気にならないほどの広さがあった。扉の正面に二人の背よりずっと高い窓があり、部屋の右側にはやはり二人が大の字になって寝ても充分すぎる大きさのベッドがある。戸惑うラウダにグエルは「狭いか?」と聞いてきたが、勢いよく首を振る姿にけらけらと笑って「今度はダイニングな!」と細い腕を引いた。
夜。ふかふかのベッドに横たわり見慣れぬ天井を見上げる。かけられた毛布も触ったことのない柔らかさで、ラウダを落ち着かない気分にさせた。
けれど一番の原因は昼間、初対面の異母兄から贈られたあの抱擁だった。柔らかく、温かく、けれど力強い。
(……いいにおい、だった)
何の匂いかと問われたらうまく答えられないが、後頭部を引き寄せた手のひらの温度も、押し付けた肩口で吸い込んだ匂いも、すべてがラウダを包み込むようで。
「……」
布団の中、そっと自分の腕で自身を抱き締めてみる。それでも欲しいものは得られなくてラウダは何度も寝返りを打った。思い返すほどに焦がれてしまうのは届かない星に手を伸ばす人々のよう。物語の世界に生きる彼らの気持ちをこんなところで理解しようとはラウダも思わなかったのだろう。目を瞑ってみても、瞬いてみても、眠気は一向に訪れない。緊張もあるのだろうが脳裏に浮かぶのは一対の美しい蒼だけだ。
「なんだ、やっぱ眠れてねーじゃん!」
「――ッ、な」
突如開かれた扉と長く伸びた影、つい今まで思い描いていた声と姿にラウダは布団を握り締めたまま硬直した。視線は放たれた扉とそこに立つ兄へ固定されているが、思考は恐ろしい速さで回転している。何。どうして。いつ。どこから。なんで。
「いきなり連れてこられた家で一人で寝ろなんて大丈夫かなーって、心配だったんだ」
聞かれてもいないことだが見開かれたラウダの瞳が雄弁に語る。廊下の明かりが漏れ入らないように扉をそっと閉めると、グエルはぱたぱたとスリッパの音を鳴らしてベッドの方へ駆けてきた。
「寂しいのか?」
小首を傾げて聞く姿は同い年であるのにまさしく「兄」らしく、ラウダは思わずこくん、と小さく頷いた。素直にそうさせる何かが、グエルにはあった。
「っ、そうだよな。不安だよな。でも大丈夫! 兄ちゃんのおれが一緒に寝てやるからなっ」
「え、だ、だいじょうぶだよ一人で眠れるよ」
いそいそとスリッパを脱ぎベッドへ上がろうとするグエルにラウダは動揺を隠せないまま断るが、ふわりと入り込んできた温もりに口を噤む。ラウダの体温が低いのか、グエルの体温が高いのかは分からない。それでも足の指先からじわりと温度が上がっていくようだった。
「っわ、……え?」
驚く声はグエルのパジャマに吸い込まれていく。隣り合って眠るものとばかり思っていたのに、ラウダの身体はグエルの腕に包まれていた。昼間そうされた時のように。
「いやか?」
「っ、いやじゃ、ない…よ……」
弟が社交辞令でなくそう言っているのだと、グエルには分かった。安心したように「よかった」と呟くと、今度は大丈夫だと言い聞かせるように背中に回した腕がゆっくりゆっくりと薄い肌を撫でた。乱暴に突入してきた割に弟を抱く腕は優しく温もりを与えてくれる。母親から与えられたのはいつのことだったか。ラウダの知る限り記憶にはない。
「……あの、……?」
寝かしつけにきたというのに当の本人は早々に夢の世界へ旅立ったらしい。規則正しい寝息が聞こえてくる。まだ僅かに緊張していた身体は心地よいリズムに合わせて少しずつ解けていくようだった。そっと胸元に預けた頬からは兄の鼓動が伝わってくる。とくりとくりと血液を送り出す音。半分だけ、おそろいの音。
「……ぼくのにいさん」
そっと見上げれば長い睫毛がふるりと震えた。ばら色の頬も、さくらんぼに似た色の唇も、とても美しく見える。けれど一等ラウダの見たいものは柔らかな目蓋の下に隠れていた。早く見たい。早く見て欲しい。
なぜかどくんと自分の心臓も跳ねた気がして胸に手を当てる。グエルを見ているだけでどくどくと跳ねる鼓動の理由を、まだラウダは知らなかった。
瞳を閉じて息を吸い込む。甘やかな匂いが肺を満たし、背中からじわりと伝わる熱が徐々に心をも溶かしていくよう。グエルの寝息に誘われるように呼吸を重ねていけば、眠りの淵はすぐそこにあった。
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