Blessings to you

prologue

 あたりに人影はない。
 ジェターク・ヘビー・マシーナリー本社フロント。その奥にある最高経営責任者――CEO執務室へと続く廊下は煌々と照らされているものの、影を落とすのは両端に等間隔で置かれている観葉植物だけだ。
 そこへ一人の男が現れた。かつかつと革靴の音を響かせて真っ直ぐに奥へと向かっていく。
 扉の前に立ち、まだ中に人がいることを確認した男は大きく息を吐いた。まったく、兄さんは。そう呟いてパネルに触れる。と、スムーズに扉はスライドし、わずかに暖色をまとった明かりが漏れ出た。
「兄さん」
 硬い、けれど温かみのある声。
「ラウダか?」
 机に向かっていたCEO――グエル・ジェタークは徐に顔を上げると、弟の来訪に表情を綻ばせた。
「兄さん、また無理してるでしょ」
「そんなことはない」
「嘘。また痩せてる。ちゃんと睡眠が取れるようにスケジュール管理はしてるはずだよ」
 弟の言葉にグエルは頬を撫でる。今はそんなにやつれるような状況ではないはずだが。
「会社もようやく軌道に乗って、そんな時に兄さんが倒れるようなことがあったら本末転倒だろ。秘書室の言うことくらい聞いてくれ」
「ああ……あいつらが呼んだのか」
 心配そうな顔をして帰っていった秘書たちを思い出す。確かに、彼らに言われるより効果はある。悔しいことに。
 苦い顔のまま眉間を抓むグエルに、ラウダはこの数年を思い返す。
 
 先の戦いでミオリネ・レンブランがグループ解散を宣言し、ベネリット・グループの三翼であるジェターク社の資産も精算手続を受けることになった。父との、家族との繋がりである会社を守るためにグエルは文字通り奔走することになったのだ。
 これまで会社に貢献してきてくれた社員たちはグエルやラウダにとって幼い頃から見知った人々でもある。父であるヴィム・ジェタークは苛烈な性格なれど、会社や社員を大切にする人物であることから思っていたよりも好かれていたらしい。
 CEOの名で社員を一同に集めた日。
 グエルはいの一番に全員の前で頭を下げた。脇に控えていたラウダが止める暇もないほど、潔く。
 そして謝罪の言葉と共に、愚直なまでに真っ直ぐ、彼の思いを伝えた。精算手続により会社を一から立て直さなければならないこと。今まで同様の給料はすぐには保障できないこと。会社から一方的に解雇はせず、退職を希望する者にはジェターク家の資産から退職金を贈与すること。もしも会社に残ってくれるのなら、この身を尽くして社員ごと護ろうという宣誓。
 幼い頃からヴィムに連れられ、きらきらした瞳でモビルスーツを見上げていた少年はそこにはいない。けれど、多くの社員にとって彼が――グエル・ジェタークが信頼に足る人物であることを疑う者はいなかった。
 幾人かの退職者を労い、残ってくれた社員たちと共に会社の再建を図る日々が始まったのだ。
 だが、ことはそう簡単ではない。経営学を学び始めて日の浅いグエルにとって、資金繰りから新たな業務の運用、展開、目の前に広がる膨大な仕事。長く勤めてくれている者の助力を得ながらも、決定権は最高経営責任者たるグエルにある。自らの選んだ道が最善であるのか迷い、悩みながらも進み続けるしかない。かつて、己を奮い立たせた少女にもらった呪文を胸に。
 一つ朗報だったのは、ラウダの後遺症が予想より軽度であったことだ。パーメット・スコアを無理矢理上げ、文字通り必死の覚悟でグエルの前に立ちはだかった異母弟。一度はその手にかかって終わることを選ぼうともしたが、可愛がってきた後輩に救われ罵倒された。きっと二人とも、一生彼女には頭が上がらないのだろう。シュバルゼッテから降りたラウダと幾ばくか言葉を交わし、治療と数ヶ月のリハビリを経てラウダもまたジェターク社へと戻ったのだ。今度こそ、兄を支える比翼となれるように。

「どうした?」
 黙り込んだ弟を心配するようにグエルが席を立つ。
 机上は片付いている。もとより残務処理をできるだけしておこうと残っていただけだ。数日後に理事長を兼任するアスティカシア学園フロントへ行く予定もあり、余裕のあるうちにと思ってのことだった。だからグエル自身決して無理をしているわけではないのだが、周囲からはどうにもそう見られないらしい。
 ラウダは現在もう一人のCEOとして提携先を回る渉外を担当している。外部の企業や関係者と連絡をとったり、交渉を行ったりするために本社フロントに滞在する時間は長くない。最初こそ兄と同じように働くことを望んだが、まだ自分には能力が充分でないことを誰よりもラウダ自身が理解していた。だからこそ立場を置いて現場の仕事を知ろうと足を運んでいるわけだが。
 ただ一つ、ラウダにとって不安の種は目の前にいる兄のことだった。
 会社を引き継いで以降、社員のためにと無理をするきらいがある。社員を想うのと同じように彼自身を大切にしてほしいと考えるのは何もラウダだけではない。ジェターク社で働く者の多くがそう考えているのだ。
 だというのに。
「ラウダ?」
「兄さん」
 名を呼び、返ってきた声が思いの外低いことにグエルは口を結ぶ。
(これは……良くない予感がする)
「兄さん、今年の社員たちの有給消化率は」
「突然なんだ。正確には分からないが、六割ぐらいだったかな……去年より良いペースだとルシアが言っていたが」
「じゃあ兄さんの有給消化率は?」
「…………」
 悪い予感というのはどうして当たるのか。グエルは唸ってしまう。
「一割の半分もないってショーンが嘆いてたよ。トップがそれじゃ示しがつかないと思うけど」
「だけど、片付けなきゃいけない仕事が」
「秘書室が調整する。無能な人材なんて一人もいないだろ」
「だが、」
「兄さん」
 強い、強い視線がグエルを射貫く。
(随分と我を見せるようになったな……)
 何やら気が抜けたのか、グエルは肩を下ろした。先程まで眉間にあった皺はもう見えない。
 かつて自分の三歩後ろを歩いていた弟が真正面から向き合う姿に嬉しさを覚える。
「兄さん面してないで、ほら。帰ろう」
 ひとまず今夜は弟に従おうと、二人揃って部屋を後にした。

 翌日のこと。
 秘書室では数人が顔を付き合わせて話していた。
 始業までは時間がある。それよりも問題は今朝提出された休暇届だった。
「見た?」
 レオがぐるりと見回す。たてがみのごとく伸ばされた髪がふわりと揺れる。
「見ました」
 と、サーシャ。続いてショーンが引き継ぐ。
「なんでCEOの休暇届をラウダが出すんだ?」
「どっちもCEOだけどね。疑問は最もだ」
 端末を手にルシア――秘書室長が頷く。
 今朝、秘書室へ入って朝のルーティンを済ませたルシアの耳に電子音が飛び込んできた。
 トップ二人からの連絡時に鳴るよう設定している音に急いで端末を確認する。そこに送られてきていたのが、グエルCEOの一週間の休暇届だった。
「というか、ラウダさん、お兄さんだけ休ませるつもりですか? 自分だって全然有給取ってないのに」
「サーシャの言うとおりだよなあ。グエルもそうだけど、ラウダが休んでるとこ見たことないぜ」
「ショーン、切り替え」
「はぁい、しっつれーしました。でもルシアだってどうにかしたいって思ってるんですよね?」
「ああ……。レオ」
「何です?」
「お二人の今後一ヶ月のスケジュールは」
「うーん、絶対ご本人じゃなければならないミーティングは月半ばまで、下旬はずらしたり執行部が代役務めたりすれば問題ないかと」
「そうか。サーシャ」
「はい」
「急ぎの決裁は?」
「至急のものは昨日ある程度いただきました。今日明日でなければ、調整はできます」
「結構。ショーン」
「はいはーい」
「言葉遣い。来客の調整を頼めるか」
「勿論! お二人とも仕事ができるのは結構ですが、俺たちのことも舐めてもらっちゃ困りますね」
 ぽきぽきと指を鳴らす動作をしながら、ショーンは唇を舐めた。その目は爛々と燃えている。
 社員を大切にしてくれるのは大変嬉しいのだが、社員とて若きCEOたちのことが大好きで、大切なのだ。彼らのためにとあらば腕が鳴るのも道理であった。四人でもう一度顔を見合わせる。
「――始めようか」
「はい!」
 いつになく燃え上がる魂を抱え、四人は急ピッチで動き始めた。

Day 0

「ラウダさん、今よろしいですか?」
 兄の元へと向けていた足をぴたりと止める。ラウダは聞き覚えのある声にくるりと振り向いた。メガネをかけた長身の女性が立っている。
「ルシア」
「今朝ご提出いただいた休暇届ですが、先程申請を受理しましたのでグエルCEOにお渡しいただけますか」
「ああ、急ですまなかった。それにしても仕事が早いな」
「ありがとうございます。こちら、ご確認お願いします」
 手渡された端末に目を通す。だが、途中でラウダの視線が止まった。一週間の休暇を取ろうとしたら少し先の日程になるだろうことは承知していたが、人数が提出したものから変更されている。
「僕は休暇届を出していないが」
「はい」
 承知しております、と秘書室長は悪びれる様子もなく答えた。ラウダは少しだけ目を見開く。
「兄さんが休むなら僕がこちらのフロントに残らなければならないだろう」
「そこなんですが」
 ルシアが口を開きかけたところで、廊下の奥から現れた人物が「あれー」と大きな声を上げた。
「ラウダCEO、お疲れ様です!」
「……ショーンか」
「なんで眉間に皺寄ってるんです? あ、休暇申請の件?」
「お前も一枚噛んでいるのか」
 眉間の皺が深くなる。
「ひどい言い草だなあ。秘書室のみんなで頑張ったのに」
「頑張った?」
「――よろしいですか」
 話を続けようとルシアが口を開く。目線でショーンを制するのも忘れない。
「恐らく、ラウダさんが勝手に申請した休暇であればグエルCEOは勝手に出社してくるでしょう」
「そうそう、社長が休日出勤とかやめてほし……失礼シマシタ」
「それで?」
「ですが、あなたが兄弟水入らずの時間を取りたい、と仰ればあるいは承諾してくださるかもしれません」
 兄弟水入らず。
 思わず呟くラウダを、ショーンはじっと見つめる。
「休暇の期間が二週間に延びているのは?」
「二週間も取れない、と仰った場合の保険です。一週間なら、と進言なさってください」
「それならあの兄さんでも折れてくれる、か……」
「希望的観測ですが」
 ラウダとルシアが手を口元に当てながら考え込む様子を、ショーンはまだ見つめている。けれど我慢できなくなったのか、「あのさ」と声を出した。
「俺も、会社のみんなも、二人には感謝してるんだよ。クワイエット・ゼロでめちゃくちゃになった会社を一から立て直して、そりゃあ軌道に乗るまで給料は安いし散々働いたけど、でもあんたたちが絶対俺らを見捨てないって分かってたからついてきたんだ。まあ、エラン・ケレスの手腕も大したものだったけどさ……でも、俺たちがここに骨を埋める覚悟してんのはグエルとラウダ、あんたたちがいるからだ。無理しなきゃいけない時があるのも分かるけど、俺たちのことも頼ってくれないかな」
 自分でも思っていた以上のことを喋ってしまったのだろう。ショーンは目をぱちくりさせて、「うわー!」と頭を抱えた。その顔は朱色に染まっている。
「何語っちゃってんの!? 恥ずかしー!」
 ラウダも珍しく、ぽかんとした表情を浮かべていた。二人の様子にルシアも小さく笑う。
「ショーンの言うことは我々の代弁でもあります。社のことは我々に任せて、一週間だけでも
お二人でゆっくり過ごされてはどうですか?」
 社員にここまで言われて断るのは不義理であろう。それに、「頼ってほしい」と言われるのは存外悪い気がしない。
「……二人ともありがとう。とにかく兄さんと話してくるよ」
 久しぶりに晴れやかな気持ちで、ラウダは兄の待つ部屋へと向かった。

「というわけで、兄さんと僕で二週間の休暇を取ろうと思うんだ」
「いや待てラウダ、何が「というわけで」なんだ?」
 部屋に入るなり「サインして」と宣った異母弟に、グエルは首を傾げながら端末を見る。そこには月末から月の頭にかけての二週間、CEO二人が休暇に入るための申請書が表示されていた。
 二週間。
「二週間!?」
 驚くグエルにラウダは先程会ったルシアとショーンの言葉をそのまま伝える。それを聞くとグエルはうーんと唸ったまま黙ってしまった。社員に気を遣わせてしまったことへの反省もあるが、そんなふうに気持ちを傾けてもらえることは素直に嬉しい。しかし、二週間。長すぎる。
「兄さん」
「なんだ?」
「二週間が長いなら、せめて一週間。一週間で戻ってきて、その後の一週間は少しスケジュールを緩くしてもらおうよ。それなら良いだろ?」
「一週間か……」
 それなら、まあ、と呟く声を聞き逃すはずもない。
「じゃあ兄さん、ここにサインして」
「そんなに急がなくても良くないか?」
「秘書室が対応始めるのに急いだ方が親切だよ」
 誰かのため、というカードを切れば兄が承諾しやすいのをラウダはよく理解していた。グエルが端末に指を押し付けると見慣れたサインが浮かび上がる。送信されたのを確認して、ラウダは背中で拳を握った。

 とはいえ、一週間の休暇と言われても何をすればいいのかグエルには思い浮かばなかった。
 屋敷にいれば手元の端末で仕事をしてしまいそうだし、ラウダに見つかったら面倒なことになりそうだしと、グエルはソファの背もたれに全身を預けながら唸る。
「兄さん? シャワー空いたよ」
「ああ、すぐ入る。……ラウダ、休暇の間に何がしたい?」
「僕? 兄さんがしたいことを一緒にしたい、かな」
「お前は昔からすぐそれだな」
 はは、と表情を緩める兄にラウダは「兄さんこそ何かないの?」と聞く。この休暇は兄のために取ったのだから、その意思を尊重したかった。
「うーん、何年も走り続けてくるとやりたいことが思い浮かばなくなるもんだなあ」
 両手をだらんと横について天井を見上げる兄は本当にやりたいことが浮かばないようで、ラウダ自身も迷ってしまう。ラウダはグエルといられるだけで本当に幸せなのだが、それではいつもの生活と変わらない。
(兄さんが身も心も癒やされる場所、ここ意外で……)
「あ、」
「何か思いついたか?」
 ラウダの脳裏に浮かんだのは、作り物ではない蒼い空と、碧い海だった。子どもの頃、父と、兄と共に訪れた土地。
「ねえ、地球にある別荘だけは残したんだよね」
 会社を立て直すに当たって多くの財産を手放した二人だったが、この家と、三人の思い出が詰まった地球の家だけはどうにか残してもらったのだ。そういえば、とグエルも思い出したように視線を遠くへやる。まだ何も恐れるものなく、未来だけを見つめていたあの頃。
 管理は普段から頼んでいるので、事前に連絡しておけばすぐにでも滞在できるだろう。
(せっかくの機会だから一週間は二人で身の回りのことをやるのもいいな。雇い人たちには休暇を出して、最低限の食料やリネンの準備だけ頼んでおけば……)
「久しぶりに降りるか」
 思っていたより乗り気になっている兄を見て、ラウダは不意に一つ、やりたいことを思い出した。こんなふうに長く一緒にいられることは数年来なかったから無理だろうと諦めていたこと。
「あの、兄さん……僕、一つだけやりたいことがあって」
「おっ、いいな。教えてくれ」
 身体を起こしたグエルが立ったままのラウダを見上げる。その表情はクリスマス前の子どものように明るい。自分が提案する内容を思ってラウダは躊躇ったものの、恐る恐る口を開いた。右手が左の前髪を弄る。懐かしい仕草にグエルが目を細めていると、弟の口から聞き慣れない言葉が飛び出した。
「兄さんと、ポリネシアンセックスをしたいんだ」
「…………ぽり……?」
 ぽかん、とした表情で首を傾げた兄は耳にした言葉をダウンロードするのに手間取っているようだった。勢いのまま言わなければ羞恥心に負ける、とラウダは矢継ぎ早に喋る。
「ポリネシアンセックス。古くから地球のある地方に伝わるとされるスローセックスの一種だよ。通常のセックスでは男性が射精することや女性がオーガズムに達することを目的とするけど、ポリネシアンセックスでは精神的な交わりを重視するんだ。体を繋げる以上に、心を繋ぎ合えると言われてる。せっかく兄さんと一緒にいられるなら、やってみたいんだ」
「うーん、それは普通のセックスとは違うのか?」
「うん。セックスとはいっても、色々な制限がついてるんだよ。実質挿入を伴う行為は五日目だけ。最初から四日間は性器を刺激しない愛撫だけに留めて気分を高めるんだって」
「愛撫だけ?」
「互いの身体を見つめたり、触れたり、キスだけしたり……毎日少しずつ触れるところを増やしていく感じかな」
「なるほど……」
 呟いて、グエルは顎に手を当て考え込む。兄の様子にはっとしたラウダは、欲望のまま暴走したことを恥じるように下を向いた。だが諦めたわけではなく、「ダメ、かな……?」と兄を見つめる。勿論、グエルがこのお願いに弱いのを知っていて。
「その、あー、ラウダ?」
「何? 兄さん」
「四日間かけて触れていくってことは、その……毎日は……しないのか……?」
「゛んッ!」
「ら、らうだ?」
 聞いたことのない濁った音に、思わずグエルは弟の方へ手を伸ばす。
 その手をそっと取り、ラウダは「もちろん、」と続けた。
「僕だって毎日したいけど……でも兄さんの体も心配だし、休んでほしいのも本当なんだよ。それに、全く触れ合えないわけじゃないし、兄さんと心の奥でも繋がれたらとても気持ちいいんじゃないかって思って」
 無理強いするつもりはないよ、と離れようとするラウダの手をグエルが引き留める。
 まだ今ひとつ理解しきれていないが、弟が自分を心から求めているのは伝わってきた。それに、初めての試みに挑戦するのは嫌いじゃない。
「分かった、やってみよう」
「本当!? ありがとう兄さん!」
 勢いよく抱きついてきた弟を受け止め、二人分の体重ごとソファが沈む。こんなふうに喜ぶ弟を見たのはいつぶりだろうかと思い返しながら、グエルもまた胸の内が期待で跳ねるのを感じていた。

Day 1

 軌道エレベーターを降り、チャーター機に乗り換え到着したのは小さな島だった。
 周囲を海に囲まれ、海岸沿いに点々と白い建物が位置している。島の中央には幾つかの鮮やかな店舗や落ち着いたレストランが見えた。個人が所有している邸もあれば、宿泊施設として使われているものもあるらしい。
 ジェタークが所有しているヴィラは島の西端にあり、二人は水上機から桟橋へと降り立った。
「ありがとう。迎えは一週間後の午後だったな」
「それじゃあゆっくりしてきてください、坊ちゃんたち」
 快活な笑みを浮かべた操縦士が親指を立てる。成人してしばらく経つのに坊ちゃんと呼ばれるのは面映ゆく、グエルは曖昧に頷いた。
「緊急時以外は連絡しないでください。僕と兄さんの端末もオフにしてあるので、何かあった場合は部屋固定の端末へ」
 ラウダの言葉に頷き、男は扉を閉めた。エンジン音が徐々に大きくなり水面が波立つ。飛び立った機体が小さくなるのを見送ると二人は桟橋を歩き始めた。

 玄関のポーチは昔と変わらず二人を出迎えた。
 変わったのは、幼い頃はあんなに大きく見えた扉が二人の身長より少しばかり高いほどに見えることだ。あれから十年以上経っているのだから無理もない。
「懐かしいね」
「ああ……」
 ラウダがドアノブに手をかけるとカチャリと滑らかな音を立てて開いた。丁寧に管理してくれていたのだろう。軽く押しながら中へ入ると、あの頃となんら変わりないホールが広がっている。白を基調とした建物は陽光を受けて明るく輝いた。
 リビングと繋がっているキッチンをグエルが覗き込む。一通りの食材や道具も揃っているから困ることはなさそうだ。綺麗に磨かれたコーヒーポットの横には、グエルが好むコーヒー豆も置かれている。口元に微笑みを浮かべながら眺める兄をラウダは幸せな心地で見つめていた。室内を回るついでに窓を開けていくと、地球を巡る大気が心地よく吹き込んできた。
 荷物をバゲージラックに置き、二人は奥へと歩を進める。かつてはそれぞれに用意されていたベッドルームだが、今回は二人で一部屋を使うことにしていた。事前に伝えていたためか一番広い部屋を用意してくれたらしい。ゆうに三人が横になっても余りそうなベッドに、思わずグエルの目尻が赤く染まる。ラウダはそれに言及せず、「少し休む?」と兄を見上げた。
 業務量は優秀な秘書により調節されているが、ここ数日緊急で入った要件に兄も自分も駆り出されていたのだ。今日からの一週間を励みに乗り越えたものの疲労の度合いは濃い。
 少しだけなら、と揃ってベッドに倒れ込む。
 ふわり、レースのカーテンが揺れる。頬を撫でる風は温かく優しい。
 気付けばこれまでの気疲れも相まって、あっという間に眠りの淵へと落ちていった。
 
「ん……」
 ぱたぱたとシーツの上を彷徨う手が空気を掴む。と、俯せに眠っていたラウダは勢いよく身体を起こした。微睡むだけのつもりがすっかり寝入ってしまった。グエルの姿を探すが、既にシーツは冷たく一人分の窪みを残すのみ。
 とはいえ邸の中にはいるだろうとラウダはベッドを降りた。
 フローリングの床を裸足で歩く。ぺた、ぺた、と足音が時折止まるのはいくつかの部屋を覗いているからだ。空けてある寝室にも、リビングにも、バスルームにもグエルの姿はない。
「兄さん……」
 どこに行ったの、と呟きながら歩き回り、ふとラウダは視線を外に向けた。吹き抜ける風。
 リビングの奥、外へと続くテラスの扉が半分ほど開いている。
 テラスは広くウッドデッキになっており、半分はバーベキューができるように道具が準備されていた。キャンピングチェアとは別にデッキチェアも二脚置かれている。何かに導かれるようにラウダは歩を進める。
 果たして、目当ての姿はそこにあった。
 グエルは海に面した手すりへもたれかかり、夕焼けを眺めていた。
 太陽が遠く、海と空との境目に溶けている。ちぎれ雲が漂う空は真っ赤に染まり、反射する光が海面に真っ直ぐと道を作っているようだった。潮騒が耳に優しく届く。
 ラウダは伸ばしかけた手をそっと下ろした。この静寂を壊したくなかった。それに、夕陽に照らされる兄の横顔がまるで知らない誰かのように見えて言葉を失ったからだ。どんなに言葉を尽くしても互いの全てを理解することはできない。分かっているはずなのに、言い知れない寂しさが胸をしめつける。けれど目を逸らすこともできなくて、迷子になった子どものように立ち竦んでしまう。
 どれほどそうしていただろうか。
 ふと、グエルが振り返った。ぼんやりしていた蒼が、弟の姿を見留めてはちりと瞬く。
(……僕の兄さんだ)
 何故かそんなことを思った。
 

 夕食は島内のホテルに頼んで部屋まで運んでもらい簡単に済ませることにした。予定外に寝てしまったこともそうだが、今夜の準備もある。スタッフは二つ返事で承諾し、二人は懐かしい味を楽しんだ。笑顔で食事をするものの、どこはかとなく緊張感が漂っていたのは今日が初日だからかもしれない。

 太陽が沈んでしまえばあっという間に宵闇が訪れる。
 食事も終え、シャワーも済ませた。戸締まりを済ませ消灯も確認し、二人ベッドの上で向かい合う。
 寝室の明かりはつけたままがいいと主張するラウダに、少し明るさを絞ってくれるならとグエルが折れる形で決めた。一つ照度を落とした天井灯が照らす中、まだバスローブを身につけたまま視線を彷徨わせている。
 自宅でセックスをする時は順番にシャワーを済ませ、小さなベッドサイドランプの明かりを頼りに触れ合うことが多い。だからこうして互いの姿をあらわにして抱き合うことに、各々緊張を抱えていた。
 気付けば正座をして、膝をつき合わせている。黙っていても始まらない、と口火を切ったのはグエルの方だった。
「その……服を脱ぐ、んだよな」
 ゆるく結んでいた部分を解き、バスローブを脱ぐ。
「うん……」
 つられるようにラウダも脱ぎ、二人分の布のかたまりをベッドの足下へとまとめて置いた。
 初めてモビルスーツに乗った時も、こんなに緊張したものだろうか。
 黙ったまま下着も取り去ると再び向かい合う。
「三十分かけて、お互いの身体を見つめ合うんだって。一応、タイマーかけるね」
「ああ……」
 ピ、と電子音が鳴る。
 スイッチが入ったのか、グエルは視線を上げると真っ直ぐにラウダの身体を見つめた。ラウダも視線を受けて見つめ返す。互いの身体の様々をじっくりと見つめるのはいつ以来だろう――もしかしたら初めてかもしれない。沈黙が落ちる。
(少し痩せたか……? いや、身長が伸びたのと……筋肉がついたのか。鍛えても筋肉になりづらいと学園にいた頃はよく言っていたが、あれからトレーニングを続けてきたんだろうな。努力家のラウダらしい。……胸から腹にかけても)
「綺麗だ……」
 思わず口にしていたのかとグエルは手を口に当てる。けれど声に出したのはラウダの方だった。
「兄さんの身体はいつ見ても綺麗だ」
「ラウダ……?」
「仕事が忙しくなってなかなかトレーニングができないって言ってたよね。でも、学園にいた頃のばきばきに鍛えていた兄さんの身体も、今のほんの少し柔らかくなった身体も、どちらもすごく綺麗だ。兄さんの肌っていつもしっとりしていて、僕の手に吸い付くようなんだよ」
 知ってた? と聞かれてもグエルは首を傾げることしかできない。ラウダは蕩々と続ける。
「がっしりとした首が好き。浮き出た鎖骨も鍛えられた胸筋も、腹筋から臍に至るまでの凹凸も。太い腕でぎゅって抱き締められると温かくてすごく安心する。脚も綺麗だよね。太股から膝、脹ら脛、足首、指先に至るまで完璧な曲線だよ。兄さんのことを見ているだけで感動するんだ」
「そ、そうか……」
 あまりにすらすらと流れ出る言葉にグエルはじわじわと顔が熱くなっていく。
「ありがとな、ラウダ」
「ううん、まだ言えるよ」
 琥珀の瞳を輝かせて前のめりになるラウダを片手で制す。グエルは何度か口を開閉させると、もう一度顔上げた。蒼がラウダを射止める。
「俺、は、ラウダの身体も綺麗だと思う」
「僕……?」
「ああ。学園にいた頃よりも随分鍛えたんだろう?」
「っ、分かる?」
「勿論だ。身体の線がシャープになったな」
「兄さんが昔プレゼントしてくれた道具のおかげかな」
「まだ持っていたのか?」
「当たり前だろ。あの日から毎日使ってるよ」
 だから兄さんのおかげなんだ、とラウダが微笑む。素直な笑顔にグエルの表情も自然と和らいだ。先程までの緊張が少しずつ霧散していく。
「俺はラウダの髪も好きだな」
「髪……?」
「ああ。また少し伸びたな……夜空色も綺麗だと思うし、長くなるとこうやって癖が出るのもお揃いみたいで嬉しかったんだ」
「兄さんも?」
 ラウダが目を円くする。髪も瞳も、同い年の兄弟だというのに似ているところの一つも無いのは幼いながら寂しかったのだ。学園に上がる頃髪を伸ばし始めたグエルを見て、もしかしたらと自分も短く切り揃えるのをやめた。二人の髪が肩につき始めた頃、毛先がくるくると癖を出し始めて密かに喜んだものだった。
「僕も、兄さんの背中を見て歩くときは揺れる髪を見るのも好きだったよ」
「今は隣にいてくれるけどな」
「それは、……うん。本当はずっとそうしたかったから」
「俺もお前がいてくれて良かった。本当に。ありがとう、ラウダ」
「そんな、僕だって」
 言葉を遮るように電子音が鳴る。
「もう三十分経ったのか。意外と早いな」
 グエルの言葉に頷きながらラウダはタイマーを止めた。メモしておいた行程を確認する。
「そうだね。次は、そっと相手に肌に触れるんだって」
「肌に触れる……」
「でも、今日は単純に触れるだけ。性的な接触はまだ我慢する日だよ」
「なんだか話してたらそんな空気でも無くなってきたな」
「……僕は、結構、我慢してる」
 からりと笑うグエルに対してラウダはきゅっと眉間に力を入れる。全く反応していないグエルの下肢から予想はしていたが、兄は自分のことをどうしても弟の比重多めに見ている。ラウダ自身も兄以外の存在として見たことは無いが、そこにはいつの頃からか情欲が共存していた。だからこその「我慢」だ。
「おお……」
「だから、兄さん、見ないふりして」
 少し兆しているペニスに目を落とす。熱を集め色濃く変化した性器に触れてやりたいと思うが、それは四日目から解禁されるという。触れたいのに触れられないというのは思っていた以上に我慢を強いるもののようだった。
「ラウダ、触れてもいいか?」
「うん……僕も、いい?」
 勿論、とグエルは頷く。そっと手を伸ばして肩から二の腕、肘、手首へと触れていく。こそばゆさに身を小さく捩りながら、自然と手を繋いでいた。視線がかち合う。
 どちらからともなく距離が近付き、グエルが繋いだ手ごとラウダを引き寄せる。
「わ……っ、兄さん!」
「はは! 懐かしいな、ラウダ」
 弟を抱いたまま後ろ向きにベッドに倒れ込めば、ぼふ、とスプリングが柔らかく二人を受け止めてくれた。寝転がったまま、隙間を埋めるようにただ抱き合う。
 体温、鼓動、吐息。そのすべてを一つも逃さないように。
「昔は俺の腕に閉じ込められるぐらいちっちゃかったのにな」
 思い出すのはここよりもずっと狭いベッドで、震える弟を抱き締め寝た夜のこと。
「いつのことだよ、兄さん……そこまで差はなかったでしょ」
「そうか?」
「もう、兄さんたら」
 言いながらも、ラウダはくすくすと肩を揺らす。ああ好きだなあと、ただただそう思う。
 ポリネシアンセックスを提案した時は無防備な兄を前にして堪えられるかと心配したものだが、それ以上に今胸を占めるのは安堵感だった。穏やかな気持ちで兄の背に腕を回す。
「……兄さん」
「うん?」
 抱き込まれた胸元からもぞりと顔を上げる。視線がぶつかり、ゆっくりと距離が縮まる。互いの吐息を唇に感じ……すんでのところで我に返ったように固まった。
 今日は抱き合っておしまい。キスはお預け。
 もう一度ラウダは頭を兄の胸へと埋めた。ほんの少し速くなった鼓動が皮膚越しに伝わってくる。
 じわり、触れた箇所から互いの温度が混じっていく。融け合う温度を抱いたまま二人は目蓋を閉じた。

Day 2

 室内に差し込む朝陽は計算されたフロントの光と異なる。ちりちりと頬を焼くような温度にぎゅっと目を瞑り、うっすらと開く。ぼやけた視界の中にピンク色が揺れて見えた。今朝は隣にいてくれたらしい。安心してもう一度目を瞑ろうとしたラウダの頬を、今度は穏やかな熱が包んだ。
「起きるか?」
「ん……にぃさんは……?」
「朝食を作ろうかと」
「……それなら、おきる」
 寝ててもいいんだぞ、と上半身を起こした兄が頭を撫でる。
 また弟扱いをしてという気持ち半分、弟の特権に嬉しくなる気持ち半分。
 けれどこの一週間はできるだけ兄と一緒にいようと思っていたのだ。ぐっとのびをして大きく息を吸う。全身に酸素が巡っていけば自然と頭もはっきりしてきた。

 二人で簡単な朝食を準備する。
 料理の腕前は二人ともそこそこ困らない程度。ラウダはジェタークに引き取られる以前、母と小さな家で共に食事を作ることもあったし、グエルは趣味でもあるキャンプが高じて料理にも興味が出たらしく作り方さえ調べればそつなくこなせてしまう。学園にいた頃は食堂もあり自分で作る機会は少なくなったが、材料と道具を目の前にすれば意外とどうにかなるものだった。
 グエルがタマネギとベーコン、マッシュルームを刻みオムレツ用にと炒める横でラウダは厚めに切ったパンを二枚トースターへセットする。キッチンに所狭しと用意されていた材料の中にトマトを見つけて副菜にしようかと手を伸ばし――伸ばしかけて、ラウダはその隣にあったレタスをむんずと掴んだ。決して水星女とミオリネと思い出したからではない、決して。
「あ、いい匂い」
「腹減ってきたろ」
「うん」
 食べ盛りの頃合いを過ぎたとはいえ、まだまだ食欲旺盛な年頃である。
 軽快にボウルの中で割り入れた卵を溶きほぐすグエルを見ながら、ラウダは千切ったレタスの横に缶詰のビーンズを盛り付けた。バスケットには見たことのないフルーツもたくさん盛ってあったが、ひとまずはとオレンジを手に取る。くし形に切り分けて皿に乗せたところでチン、と軽い音を立ててトーストが飛び上がった。
 冷蔵庫から取り出したバターをたっぷり塗って薄い皿に一枚ずつ乗せる。
「もう一枚焼く?」
「そうだな。セットしておいて後で焼くか」
「分かった」
 二枚目をセットして、できあがった皿をテーブルへと運ぶ。
 グエルが作ったオムレツも半分ずつサラダの隣に乗せられ、カトラリーと共に運ばれる。
 グラスにたっぷりと入れたミルクが揃えば立派な朝食が並んでいた。
 二人向かい合って座る。目の前には湯気を立てるおいしそうな朝食。味気ない栄養食とは違う、きちんとした食事。
 どちらからともなく視線を合わせて柔らかく笑う。
「いただきます」
 かぶりつけば、それは幸せの味がした。

「ところで、今日は何かしたいことあるか?」
 食後、グエルの淹れたコーヒーを飲んでいた時のことだった。
 ラウダは窓越しに外を眺めながら首を傾げる。兄と共にいたいということ、五日間かけてじっくりセックスをすること以外、今回は特に目的もない。かといって体を動かすのが好きな兄がじっとしていられるわけもない、ということもよく理解していた。
「兄さんこそ、何かしたいことはないの?」
「俺か?」
 うん、と頷くとグエルは「そうだなあ」とやはり外を眺めた。既に日は高く、今日も清々しいほどの快晴だ。
「泳ぐか!」
 そう来るかな、と思っていた通りの答えにラウダは用意していた質問をする。
「水着は?」
「クローゼットにあったぞ。サイズもちょうど」
 さすがはジェタークに勤める者たちだ。準備がいい。
 ほらこれ、とグエルが取り出して見せたのは赤地に黄色の花柄が散ったものと、紺地に紫の葉模様のハーフパンツだった。差し出されたのは紺地のもので、ラウダは特に断る理由もなく受け取った。少しわくわくしている兄に昔の面影を見る。海で泳ぎすぎて寝ている間も波に揺られている気がする、と笑っていた幼い兄を。
「行くか、ラウダ」
「ちょっと待って兄さん」
 慌ててラウダも着替えるが、そう言えばと端末で何かを調べ始めた。グエルは海へ持って行こうとボトルに水を用意しつつ「どうした?」と視線を向ける。
「フロントと違って地球では太陽光が肌を焼くんだって。そうか、紫外線フィルターが充分じゃないのか……兄さん、昔日焼けが痛いって泣いたことあったろ」
「そっ、んな昔の話を」
「体質はそんなに変わらないから。ほら、これ塗って。上からシャツも着て」
 日焼け止めのジェルを塗ったのを確認してから、ラウダは兄に薄手のシャツを渡す。黄色のシャツはグエルの水着とよく合っていた。ラウダもハーフパンツを穿き替え水色のパーカーを羽織る。
 タオルやボトルを入れたデイパックをグエルが持ち、二人はテラスから浜辺へと続く道を降りていった。

 少し歩けば目の前には白い砂浜が広がっていた。波も低く海面は穏やかだ。打ち寄せる波音が耳に心地よい。島内はほぼプライベートビーチのようなもので、他に人の気配はないのも二人を穏やかな気持ちにさせた。
 太陽の熱を吸って温かくなった砂はあの頃よりも深く沈んで体重を受け止める。サンダルを履いていたものの、歩きにくさにグエルが裸足になればラウダもそれに倣った。素足の裏にじりじりと伝わる熱も、後ろ髪を揺らして吹き抜ける風も、ここが仕事と縁遠い場所であることを教えてくれるようでグエルは大きく息を吸った。楽に呼吸できる気がする。
「気持ちいいね」
 兄の心を読んだのか、ラウダがほつれた前髪を押さえながら呟く。ああ、と応える声も柔らかい。言葉少なくただ並んで歩くのも悪くない。歩を進めるうちに足先を透明な水がさらさらと舐めるように触れていった。
 打ち寄せたさざ波が静かに引いていく。足下の砂がほろほろと崩れていく感触は久しく忘れていたもので、ラウダはバランスを崩さないようゆっくりと踏みしめて歩く。足首をくすぐるような感触も懐かしくて、自然と口元が緩んでいた。
 初めてここに連れて来られたのはジェタークの屋敷に呼ばれて間もない頃だった。本の中でしか見たことのない広大な海原に、さざめく波の音に、どこまでも蒼く果てしない空に、幼いラウダは言葉を失った。それを驚きや畏れと捉えたのか、兄らしく振る舞いたかったのか、グエルは小さな手を取り波打ち際へと誘ったのだった。靴ごと海に入ったため下半身びしょ濡れになり、使用人たちにそこそこ叱られたのも今となっては懐かしい思い出だけれど。
 あの頃と変わらず海は青く、空はどこまでも蒼が広がっている。遠く真一文字に海と空を区切るのは水平線というのだと、そういえば兄に教えてもらったのだった。宇宙から見れば地球が球体をしているのは自明だが、過去に生きた彼らはどうやってその形を理解したのだろうとぼんやり物思いに耽る。
 そんな時だった。
「泳ぐか」
 グエルの声が一拍遅れてラウダの耳に届く。と同時に隣の空気が動いたかと思えば、ドサッという音と共にデイパックやサンダルが砂浜へ投げ出されていた。他人がいたら絶対にしないであろう雑な動き。ラウダの顔に影がかかったのは兄がシャツも脱いで投げたからだ。
「危ないよ、兄さん!」
「平気だ。ラウダも泳がないか?」
 言いながらグエルは波をかき分け沖へと泳いでいく。このまま砂浜で兄を待つか、追いかけるか。一瞬迷って、ラウダもサンダルとパーカーを放ると海へと入っていった。膝から太股まで海水に浸かり、底を蹴って泳ぎ始める。口の中に塩辛さを感じて、ああ本当に今、地球にいるのだと実感した。
「意外と泳げるもんだなあ」
「子どもの頃に覚えたことって忘れないらしいね」
 岸に置いた荷物がまだ見えるほどのところまで泳ぐと二人は一度立ち止まった。このビーチは数キロに渡って遠浅のため、成長した彼らであれば充分に足をつくこともできる。幼い頃は底知れない深さが怖くてグエルに掴まっていたラウダも今は一人で立てる。小高い波が打ち寄せるタイミングでジャンプすれば顔にかかることもない。
 それでも波に体を任せて浮かぶのは気持ち良く、二人は空を仰いだ。透明な海面にそれぞれの髪が広がり揺れる。
「……こんな、」
「何?」
「こんな色だったんだな、空は……」
 宇宙空間における「空」とは、フロントのパネルに投影された映像でしかない。地球から見える景色を映し出したというそれに何らかの感情をもった覚えはないが、こうして光の反射によって見える蒼穹は美しいと、グエルは目を細める。
「綺麗だ……」
 呟くグエルの視線は空に吸い込まれそうだ。けれど隣に浮かぶラウダは、兄の瞳の方が余程美しいと思う。兄の感動に水を差すつもりはないので胸に留めるが、この世で兄以上に美しいものを弟は知らなかった。
 どちらからともなく戻ろうかと視線を合わせ、岸に向かって泳ぎ出す。わずかに流されていたらしく真っ直ぐ泳いだはずが先程荷物を放り出した場所から数メートル離れた位置に辿り着いた。
 濡れた髪を後ろに流し、きゅっと絞る。潮の香りに慣れないなと笑い合っていると、ぽつり、肩や鼻の先に水滴が落ちてきた。
 雨はあっという間に大粒になり足下の砂を濡らしていく。それは二人も例外ではない。
「わっ!?」
「ラウダ、急げ!」
 突然のスコールに走り出す。柔らかい砂浜に足を取られつつ、グエルはデイパックとサンダルを、ラウダはシャツとパーカーを拾ってテラスを目指した。

 室内に戻る頃には髪も服もずぶ濡れになっていた。肌は海水でべたつき、拾った荷物もぐしゃぐしゃだ。思わず顔を見合わせる。
「……ぷっ、」
「ははっ、ひどいな!」
「ふふっ、ほんとに」
 こんなみっともない姿になったことなんて、この十年間あっただろうか。いつもかっちりセットしてあるグエルの髪は濡れた犬のようだし、綺麗に櫛で梳いているラウダの髪もべったりと張り付いている。お互い以外には見せられない格好だ。
「何にせよこのままじゃ風邪ひくな。シャワー、一緒に入るか」
「えっ」
「え?」
 誓って他意なく誘ったグエルだったが、真っ赤になった弟を見てふとこの休暇の目的を思い出してしまったらしい。こちらも耳の先が朱に染まる。
「兄さんが風邪ひいたらいけないから、先に」
「ラウダ」
「な、なに……」
「……一緒に、入るか」
 今度は理解して、そして、誘った。そういう意味で。
 じっと、一対の蒼が見つめる。
「…………ん」
 素直に頷くと、グエルは緊張と安堵がない交ぜになった表情を浮かべた。

 びしょ濡れの服をボックスに放り込み急いでバスルームに入る。スイッチを入れると大きな音を立てて温水がバスタブに張られていった。
 広々とした室内には大人がゆうに三人は入れそうなジャグジーが中央に位置し、周りに二つのシャワーが設置されている。
 先に海水だらけの髪を洗い体を流すとグエルの方が先にバスタブへと入った。自動設定されたジャグジーがゴポゴポと音を立てている。ラウダは手早く体を洗うと兄を追いかけるようにバスタブへと足をかけ、思い出したようにジャグジーのスイッチをオフにした。ぶくぶくと湧き上がっていた泡が一瞬で止む。
「あっ」
 それからグエルが手にしていたバスボムも掴むとケースへと戻してしまった。
「……ダメか?」
 兄得意の上目遣いだが、こればかりは譲れない。ぐっと頷きたくなるのを堪えてラウダは首を振る。
「兄さんの身体、全部見たい。見せて」
 いつになく強い視線がグエルを射た。
 隠す気のない弟の欲に知らず唾を飲み込む。
「わ、かった……」
 頷き、バスタブの中で二人は座ったまま向き合う。
 通り雨はすぐに流れていったようで、再びバスルームにはガラス越しに光が差し込んだ。昨夜は薄明かりのい中で見つめた互いの身体をつまびらかにされる。これまでもシャワールームで一緒になった際、裸など見慣れているはずなのに、それとは違った緊張感がグエルを襲う。
「やっぱり兄さんの身体、綺麗だ……」
 琥珀色の瞳が潤み、まるで蜂蜜のようだ。どろりと甘く、喉の奥にはりつくような。
 じいっと見つめたまま動く気配のない弟に、グエルはどうしようかと思う。このまま見つめ合っているのもいいが、二日目は性感帯を覗く相手の身体に口付けることが許されるらしい。
 ならばとグエルは底に付いていた手をゆっくり伸ばした。
 ぱた、と水の垂れる藍色の前髪を横へと流す。ラウダは兄が何をしようとするのか気になるようで、視線だけを動かすに留める。膝を付いて上体を伸ばしたグエルは、露わになった額へと口付けを落とした。続いて指先で掬った髪の先に、目蓋に、頬に、触れるだけの優しいキスを落としていく。
 親愛の情を込めた口付けにラウダは面映ゆさを感じつつ、頬を包む手のひらに自らの手を重ねた。自分より幾分太い手首を掴み、口元へと引き寄せる。
「ん……」
 手の甲に唇を落とし、裏返して手のひらの中央へ。こっそり舐めようとしたら「ラウダ」と低く呼ばれる。
 咎めるよりも困惑の色が強い声に、自分が言い出したのだからと舌を引っ込める。生命線をなぞるように口付けながら手首の内側へと吸い付いた。少し長めに吸うと、ちりとした痛みと共に薄紅が咲く。
 満足げに眺めていると今度はグエルがラウダの手を取った。
 細い指先を絡め取り口付ける。指の先端を口の中に含み吸うのは明らかに別の行為を思わせた。ラウダの下肢にかっと熱が集まる。
「兄さん……!」
「すまん、冗談だ」
「――ッ、冗談に見えないよ……」
 軽口を叩いたように見えて、ラウダを見つめる蒼は膜を張ったように潤み熱を孕んでいる。
(これをあと三日間も堪えるのか……?)
 今更ながらなんという提案をしてしまったのかと思うが、普段はじっくり兄を見つめる余裕もなく繋がってしまうことを考えると制限のある中で抱き合うのは悪いことではない。
「兄さん、こっちに座ってもらってもいい?」
「ああ。こうか?」
 グエルが立ち上がるとぱしゃりと水面が波立つ。揺れる感覚に先程まで泳いでいた海を思い出しながら、ラウダはバスタブの縁に腰掛けた兄の太股に手をかけた。
「んぁ……っ!? ら、ぅだ……」
「……ン、兄さん、やっぱり少し焼けちゃったね」
 すり、と膝頭の上あたりに薄らついた色の境目をそっとなぞる。痛みはないが指の腹で繰り返しなぞられると別の感覚がこみ上げてきた。目の前でゆるりと頭を擡げたペニスを愛したい気持ちは山ほどあるが、今日は性感帯に触れられない。見ぬふりでラウダは太股の内側に顔を寄せる。
「んんっ、ア、……ッ」
 間接的な刺激にも反応したそこがひくりと揺れる。自らの手で興奮する兄の姿にラウダは生唾を吞む。だがまだ今日は触れられない。
「兄さん、ごめんね。でも我慢した分すごく気持ちいいはずだから……」
「は、ぁ……らうだ、交代、しろ」
「えっ」
「今度は俺がする」
「う……」
 断れるはずもなくラウダはポジションを代えた。日焼け止めをしっかり塗ったからか、体質からか、ラウダの肌はあまり色を変えていない。面白くなさそうな顔をしてグエルは太股のあたりを揉むように撫でている。
「に、にいさん……」
「ああ」
 急かしたわけではないのだが、グエルは身体を起こすとラウダの腹に顔を近付けた。予想外の動きにラウダが固まる。ぴく、と震えた腹筋の溝を辿るようにグエルは口付けていく。兄の頭が徐々に下肢へと近付くにつれ、見下ろす景色はまるで口淫をされているようで視界を遮るようにぎゅっと目を瞑る。
 しかし情報が遮断されたことでまざまざと唇の感覚を拾ってしまう。腰骨から足の付け根、恥骨を辿り太股を、膝の内側を、脹ら脛へと唇が降りていく。
「っふ、ぅ……ん……」
 湯の中に浸かっていた足首ごと持ち上げられ、仕上げとばかりに足の甲へ痕を残すと満足そうにグエルは弟を見上げた。そうするのが当たり前であったかのように、ラウダは上体を倒しグエルの唇に自分のそれを重ねる。
(触れるだけ。今日は、それだけ)
 心の内で唱えて舌を差し込みたい気持ちを抑えたのはどちらだったろうか。触れるだけでこんなに気持ちいいのなら、舌を合わせたら、性器に触れたらどれほど融けてしまうのだろう。我慢できそうにないからと唇を離し、首筋や肩、鎖骨へと移っていく。髪から滴る雫が肌を滑り落ち、ぽちゃん、と小さな音を立てる。
 電子音がディナーの時間を告げるまで、二人は互いの肌を余すところなく口付け合った。

Day 3

 今日こそは兄の寝顔を拝もうと勇んで起きたものの、ラウダの隣は空っぽだった。どうしたら早起きができるようになるのだろうと昔カミルに相談したが苦笑いしまま結局答えてくれなかったことを思い出す。
 ぎゅっと目を瞑って、開いてと繰り返すうちに意識はクリアになっていく。ふわりと漂ってきた香りにつられるようにしてラウダはキッチンへと足を進めた。
「おはよう。もうすぐできるぞ」
「兄さん、おはよう。走ってきたの?」
 既に寝間着からTシャツとハーフパンツに着替えているグエルは肩にタオルをかけている。汗に濡れた髪がわずかに湿っていた。
「近くを少しな。今日もいい天気だぞ」
「……僕も行けば良かった」
 そう言えば一瞬グエルは目を円くして、からりと笑った。腕を伸ばしてぐしゃぐしゃと頭を撫でる。
「うわっ、兄さん!」
「明日起きられたら一緒に走ろう。顔洗ってこい」
「うん」
 洗面台の鏡を覗き込むとあちこちに跳ねた夜色の髪が映る。濡れないように両耳にかけると、ラウダは勢いよく水を出した。冷たさに目が覚める。明日こそはと思うが、果たして起きられるだろうか。
 ふわふわのタオルで顔を拭いて、軽く髪も梳かしておく。キッチンに戻ると兄が何か歌っている声が聞こえてきた。
「ご機嫌だね、兄さん」
「そうか?」
 無自覚らしい。笑顔を返してラウダは兄の手元を覗き込んだ。膨らんだパイ生地の上にたっぷり入った卵液には、ベーコンやほうれん草がぎっしり詰まっている。以前、兄と二人きりでキャンプをした時においしいと言ったのを覚えていてくれたのだろう。些細なことにも胸が温かくなる。
「いい匂い。おいしそう」
「プレート出してくれるか?」
「もちろん」
 棚の中を探して白地に同色の蔦が縁取られている皿を取り出す。グエルが取り分けやすいように二枚を並べて置き、ラウダはカトラリーの準備を始めた。
 手際よく分担して動いているうちにケトルが甲高い音を立てる。あ、とラウダは思い出したように、火を止めた兄へ声をかけた。
「僕がコーヒー入れてもいい? 練習したんだ」
「そうなのか?」
 グエルが嬉しそうに微笑む。弟のために手ずからコーヒーを淹れることは楽しみの一つだったが、弟が自分のために何かをしたいと思ってくれることが嬉しかった。真面目なラウダのことだからおいしい淹れ方も調べてくれたのだろう。
「じゃあ頼む」
「っ、うん。任せてよ」
 できあがったキッシュを取り分けグエルはテーブルへと向かう。食事の準備を整えるとゆったりと座り、奮闘する弟を微笑ましく見守った。

「それで、今日は何しようか。兄さん?」
 朝食の片付けはラウダが請け負った。手早く食器を洗いながら問いかけると、グエルは少し考えこんでから顔を上げる。
「島の中心地にモールがあったよな。行ってみるか」
 初日に空から見たのか、幼い日の記憶から思い出したのか。
 定かではないが「二人でお買い物」の魅力にラウダは一も二もなく頷いた。
 CEOに就いてからというもの、二人の頭を占めるのは会社の再建ばかりで――さらにグエルに至っては、学園の再興と地球の復興にまで手を伸ばそうというのだから自分のための時間など無いに等しい。服を新調するといっても必要なのはスーツであり、学園にいた頃は制服があれば良かったからここ数年私服を買った記憶がほとんどない。
 今になって、休暇らしい休暇を過ごしている実感が湧いてきた。
 一通り片付けを終えると最低限の荷物を持って外に出る。
 それぞれのヴィラから島内中央に向かう道は白いレンガで舗装されていた。島の西端から中央までは少し距離がある。けれど二人並んで太陽の下を歩くのは悪い気分ではない。
 歩道の両側に背の高い南国特有の木が植えられている。大きな葉が重なって陰を作り、木漏れ日がちらちらと足下で揺れるのを眺めながら二人は歩を進めた。時折海から吹く風が潮の香りを運んでくる。目にかかる前髪を指先で横に流しながら、ラウダは左を歩く兄を見上げた。
 かつては獅子の鬣のごとく伸ばしていた髪も短く切り揃えられて久しい。ラウダは威風堂々と鬣を靡かせながら歩く兄を、三歩後ろの特等席で見るのが好きだったから寂しくもある。
 彼が髪を切った本当の理由を聞いた――聞き出した時は憤慨しすぎて血管が切れるかと思ったが、グエル自身が今の髪型を割合気に入っているらしいので飲み込んでいるだけだ。
 ただし、一つだけラウダがこの髪型を嫌ってはいない理由もあった。
 歩く位置を一歩だけ下げて、ひょいと背後を覗く。短く刈られた項に薄紅の花が咲いている。昨夜ラウダが刻んだ印はまだそこに残っていた。
「ラウダ?」
「何、兄さん?」
「虫でもいたか?」
「ああ。ううん、大丈夫。トンボが止まってたみたいだけどもう行っちゃったよ」
 仄かな悦びに微笑みを浮かべながら答える。もうしばらく歩いていると、目の前にはカラフルな壁の色をした建物が見えてきた。
 
 まず目に付いた店に入ってみるとそこはシューズ店のようだった。南国に似つかわしい派手なサンダルや紐靴、奥には値の張りそうな革靴も置いてある。リゾート地ではあるが商談などに使う場合は必要になることもあるだろう。ざっと店内を眺めると二人は隣の店舗へと移動した。
 今度は食料品――いや、子ども向けのキャンディショップか。これまた色とりどりの菓子が壁の上から下までぎっしりと詰まっている。中央には掴み取りできる透明のケースも置かれていて、どうやら試食もできるようだった。見たことのない色をした棒状のキャンディにグエルは興味をもったらしい。ラウダは止めたが、好奇心の方が勝ったようでグエルは緑と紫が螺旋状に渦巻くキャンディを口に含んだ。途端に眉がぎゅっと寄せられる。
 だから言ったじゃないかと呆れる弟の口に素早く折った片割れを突っ込むと、二人して顔を見合わせた。甘さにはちょうどいい甘さがある、ということを学んだようだ。
 あちこちの店をあてもなく冷やかしながら歩いていると、モールの奥にひっそりと佇む建物が見えた。グエルにつられてラウダも一緒に向かう。
 扉を開くと、涼やかなガラスの音が頭上で鳴った。
 そう広くない店内には所狭しと雑貨や服が並んでいる。リゾート地には少し不似合いに見える店舗だが、漂うオリエンタルな香りは何故かグエルを落ち着かせた。
 ラウダはあまり興味を引かれないようで適当に流し見ていたが、グエルはカチャカチャ音を立てながらハンガーを動かしている。南の島特有の極彩色のシャツに埋もれそうな中に、無地のようなTシャツがあった。周囲のハンガーを左右に寄せる。
「ラウダ!」
「何? 兄さん、いいのあった?」
 きらきらという効果音を背後に浮かべながらグエルが両手に持って見せたのは、獅子を模したモチーフが中央にプリントされたTシャツだった。白地に紺の印刷と、紺地に白の印刷。少し大きめの作りはフリーサイズだろう。
「これなら色違いで着られるな」
「そうだね。早速明日着てみる?」
 Tシャツを着る機会などジムでトレーニングをする時ぐらいではないかとも思うが、何せ兄が選んでくれたお揃いである。ラウダはにっこり笑って頷いた。
 すみません、と声をかけると奥から一人の女性が出てきた。ショートカットと日に焼けた肌が溌剌とした印象を与える。
「ごめんなさい、奥で作業してて! いらっしゃい。あ、もう決まりました?」
「これを二枚、お願いします」
「あ、お揃いのライオンさんですね。これ私のイチオシで入荷したんですよ。お兄さんたち、お目が高い!」
 さっと受け取った服を畳みながら女性はグエルとラウダを見比べる。
「仲が良いんですね。ご兄弟?」
 袋に詰めながら聞かれてラウダは瞬間、返事に躊躇した。何故躊躇ってしまったのか分からないままむぐ、と唇を合わせる。と、商品を受け取ろうと手を伸ばしていたグエルがふにゃりと笑った。照れくさそうに、けれど喜びを浮かべて。
「パートナーなんです」
「あら、すてきね!」
 雰囲気が似てたから、と言いながら女性は「これ、オマケ」とカウンターに飾ってあったミサンガを二本手渡した。赤から紫にかけてグラデーションになっている。
「願いを込めて結ぶと契れる頃に叶うって言われてるの。二人の幸せを祈ってるわ」
 思いもよらず受けた祝福。一瞬の間を置いて、二人はこぼれるような笑みを見せた。

「小さい頃、よくこうやって映画を観たよな」
 夜、ベッドの中央に座ったグエルが思い出をなぞるように呟く。サイドボードに置かれたランプの電球色が淡く室内を照らしている。
 下着は着けているがラウダの背中にはグエルの肌がひたりと合わさり、いつもより少し速い鼓動が静かに伝わってくる。今夜は兄たっての希望で後ろから抱き締められ、大人しくそこに収まっていた。
「ホラー映画だと兄さんがびくってなってるの、背中から伝わってきてたよ」
 幼い頃の共有された思い出はじわりと胸を温かくする。
「……バレてないと思っていたんだが」
「そうだと思ったから何も言わなかったでしょ」
 他愛ない会話をしながら兄の表情を伺おうと振り向けば、二対の瞳がぶつかる。どちらからともなく唇を寄せればそれが合図だった。
「ん……っ、ふ……」
 グエルの腕が緩み、ラウダは上体を捻って振り向く。潤む蒼に触れたくて目元をそっと撫でる。目蓋の下でふるりと震える動きすら愛おしい。
 触れるだけのキスを、何度も角度を変えながら重ねていく。徐々に息が上がっていくのを感じながら口付けの合間にグエルは言葉を続けた。
「……は、ぁ……今日は、んっ……どこまで……?」
「ん……これ、は、だいじょうぶ」
 距離を縮めようと顎を上げ、グエルの唇に舌を差し込む。軟らかな舌先が上顎を突いた。待ち望んだ感覚にグエルの喉が震える。応えようと迎え入れた舌に自分のそれを絡め、じゅる、と奥へ誘い込む。
 兄の求めるまましばらくキスをしていたラウダだったが、下腹部にじわりと溜まる熱を感じて腹に回されたグエルの腕を優しく撫でた。
「……ん、なんだ、らぅ……っんむ、ふ……」
「……兄さんにさわりたい。触ってもいい? 今日は性器以外、どこを愛撫してもいいんだ。だから、いっぱい兄さんを気持ち良くしたい。……お願い。いいよって言って」
 見上げる琥珀がゆらゆらと煌めく。芯に灯る熱は逃がす気が微塵も無いことを伝えていた。
 知らず喉が鳴る。
「……俺もお前に触れたい。可愛がってやりたいよ」
「兄さん……っ」
「だから、いいよ。ラウダ、お前の好きなように」
 さわって、と言い終えるや否や、グエルの背はベッドに沈んでいた。我慢できなかったらしい弟の勢いに思わず笑うと腹の上でラウダが唸った。くしゃくしゃになった顔は真っ赤に染まっている。
「ずるいよ、兄さん」
 そう言って身体を起こすと、ラウダは兄の肌へと手を伸ばした。
 自分よりも一回り大きな体躯は本人の意思があれば簡単にラウダのことを押し退けるだろう。そうはせずラウダを受け入れてくれることに紛れもない愛を感じてしまう。
 ゆっくりと肌の表面をなぞっていく。首筋から鎖骨へ指先を這わせればしっとりと手のひらに吸い付くようで、ラウダは熱い息を吐いた。いつ見ても美しい身体だと思う。その肌に触れることを許されているのは自分だけだと、自惚れでなくそうと知っている。ゆっくりと顔を近づけていく。シャワーを浴びた後にも残る甘いコロンの香りにくらり、目眩がしそうだった。
「……ン、」
 鎖骨の窪みを舌先で舐める。僅かに塩の味がした。鼻に抜けるような兄の声がもっと聞きたくて下から上へと鎖骨の縁を辿っていく。
 常ならばそうまで時間をかけない触れ方にグエルは喉を鳴らす。――焦らされている。
(俺も……)
「ん……」
 シーツを掴んでいた手を解き、一筋垂れている弟の前髪を横へ流してやる。くしゃりと頭に回しても大きな手には余裕があった。親指の腹で頬を優しく撫でる。普段は前髪に隠れているが、こめかみから頬にかけてうっすらと痕が残っていた。痛みはないのだと本人は言うが、こうして熱を交わす時に浮き上がる模様はグエルに自責の念を感じさせる。
「兄さん……?」
 ぴく、と傷痕の上で動きが止まったのに気づいたラウダが顔を上げると、痛ましげな表情に出会った。兄のその顔を見るたびに、ラウダの胸には複雑な感情がこみ上げる。
(そんな顔しなくてもいいのに)
 自分を見てくれと必死で足掻いたあの日。
 あの行動が正しかったのか、間違っていたのか。そんなことはどうでも良かった。自分の奥底に眠っていた嘘のない願望を兄にぶつけ、命を懸けた。フェルシーのおかげで二人とも一命を取り留め、その後の対話を経て今がある。ラウダにとって、両頬に残る傷痕は勲章と同じだった。「兄の隣」という居場所を得た、自分への。
 一方で、一生自分たちを繋ぐ鎖が増えたことへの仄暗い悦びもないといえば嘘になる。
 ただ、兄を傷つけたいわけではないからそんな感情はおくびにも出さずラウダは微笑んだ。
「大丈夫だよ。痛みもないし、後遺症の心配もないって出たのは兄さんだって見たじゃない」
「ああ……でも、」
「でも、兄さんに触ってもらうと温かくて気持ちいいんだ」
 だから、触って。もっと。
 自分から手のひらに頬を寄せる。弟の優しさに今は甘えることにして、グエルはゆっくりと乾いた頬を撫でた。
 再び顔を落としたラウダは唇の位置を徐々に下げていく。弾力のある胸の両側にある突起はいつの間にかそっと主張している。小さな粒を唇で柔く食むと立派な体躯が跳ねた。
「兄さん、気持ちいい?」
「ッあ! ……んぅ」
 グエルの口から聞きたくて、ラウダは反対側の乳首もきゅうっと摘む。口の中で転がすように舐めると手の下でひくひくと震えるのが分かった。にいさん、と再度呼ぶ。
「んっ、あ……きもち、ぃ……から、」
 焦らすな、と言いたいのだろう。弱い刺激では足りないだろうから。
「うん。気持ちよくなってくれて嬉しい」
「――ッ!」
 お礼に甘咬みをして、指先はきつく摘むとグエルは喉を反らして喘いだ。ぐしゃっと髪を引っ張られラウダも僅かに後ろに反る。
「っは、ア……悪い、痛かったか?」
「ううん、大丈夫」
 一瞬の刺激の後はゆるゆると舌先で粒を弄ぶ。時折ちりっとした痛みが走りグエルは目を眇める。弟が鬱血した痕を散らしているのだろう。
 ふとグエルも思い立ってラウダの頭を自分の方へ寄せた。兄さん、と肩のあたりで声がする。意外と太い首筋に唇を寄せて吸い付けば薄青い楕円が残った。満足気な顔をして、さらに周囲へと唇を落としていく。
「にっ、ぃさん……っ、ふ……」
「俺も触れていいんだろう?」
 首から胸元にかけて続けていく。上から降ってくる甘やかな声は日中向けられるものとまた違っていてグエルを興奮させた。するりとうなじから背骨へと手のひらを移していく。
 学生の頃は自分より一回り小柄に見えた身体は、少し見ない間に逞しく成長したようだった。筋肉の付き方を確かめるような触れ方についラウダは笑ってしまう。初日もだが、どうしてもグエルは兄としての視線が切り離せないようで、だからこそこうしてセックスする関係になっていることがたまに信じられなくなる。
「解剖学の講義でもするつもり?」
 ラウダの軽口にはっとしたのか、グエルは恥ずかしそうに謝った。切り替えるように下から唇を寄せる。ラウダは笑って受け止めると深く舌を絡めた。
 どちらのものともつかない唾液が唇の端から零れ落ちる。それを拭うでもなく、ラウダは身体を起こすとずりずりと下がっていった。途中ゆるく膨らんだ下着を見るが、今日はそこだけ触れることができない。早く口で愛したいと思う。
「これ、結構きついね」
 そう言うラウダの下半身は布をしっかり押し上げていて、グエルは眉を顰める弟を見て笑ってしまった。言い出したのはラウダの方だというのに。
「明日までの我慢だな」
「明日は明日である意味地獄かもしれない……」
 イったらダメだし、と更に眉間の皺を深くする弟に今度こそ声を上げて笑う。グエルが音を上げるまで執拗にナカを拓き融かしてきた弟の忍耐強さにはある意味感心していたが、こんなにも求められていたとは。
「兄さん、バカにしてる?」
「はは、逆だよ。もっと色々してやりたくなる」
 え、と目を円くしたラウダにキスをしたくて一気に上半身を起こす。
 両肩を掴んで唇を合わせる。触れるだけのキスをしてから身体の中心を通るように唇を落としていく。腹筋の溝にそって吸い付くと下着がふるりと揺れるのが見えた。じわ、とグレーの布地が濃くなっていく。
「感じてくれて嬉しいけど触れないのはつらいな」
 そう言ってふっと先端に息を吹きかければ、暴発しかけたラウダが「兄さん!」と悲鳴を上げた。
 互いにこれ以上触れていたら我慢できなくなりそうで、相談の上今日のところは切り上げることにする。最後にたくさん触れるだけのキスをして――グエルが舌を入れようとするのを必死で唇を引き結んで拒み――向かい合わせに抱き合う。未だじんじんする股間は少しの刺激で達してしまいそうだけれど、互いの呼吸を聞くうちに落ち着いていく。呼吸と潮騒のリズムが重なる頃には、二人とも夢の中を漂っていた。

   Day 4

 翌日は、悶々とした夜とは裏腹に快晴だった。
 どこまでも澄み渡る空が遠く水平線で海と隔てられている。
「キャンプ日和だな」
 カラカラとガラス戸の滑る音と共に心地よい風が吹き込んできた。テラスに設置されたグリルも日差しにきらりと輝く。二人は昨日買った色違いのTシャツに身を包んでいる。
 地球での休暇が決まった時、グエルがぽつりと呟いた言葉を聞き逃す弟ではない。事前に現地スタッフへ連絡をしてヴィラでもキャンプができるよう頼んでおいたのだ。組み立てのテントも一式、倉庫に用意されている。いつの日か父が過ごしたように地球でキャンプをしてみたいと、以前兄が言っていたことも記憶していた。共にその願いを叶えられるのならちょうどいいと思ったのだ。
「準備を頼んでくれたんだろう? ありがとう、ラウダ」
「そんな、……兄さんのためだったらこんなこと苦でもないよ」
 晴れやかな笑みを浮かべる兄に応えながら、ラウダはじわりと手の内に汗が溜まっていくのを感じていた。
 兄は心から今日の予定を楽しみにしてくれているというのに、自分ときたら手をきつく握っていないと昨夜の痴態を思い出し反応してしまいそうだなんて。太陽に照らされた兄の横顔が眩しい。こめかみに一筋伝う汗の粒。
「……ぐ、ぅ」
「ラウダ?」
 またしても脳裏に浮かんだのは快楽を素直に受け止めふにゃりと笑った兄の姿で、ぎりぎりと手を握り締める。爪が皮膚に食い込む感触でどうにか気を散らすのに成功したが、「大丈夫か」と覗き込んでくる兄の胸元が眼前に迫り「んぐっ」と情けない声を上げてしまった。
「具合悪いのか?」
「ううん、違う。心配かけてごめん、大丈夫だから」
 早口に言って片手で距離を置こうとする弟はどう見ても大丈夫そうにない。けれど視線を反らしたラウダの耳が、目元が真っ赤に染まっているのを見て、さすがのグエルも察した。自分とて朝からいつもより多めに走り、身体を動かすことで意識的に発散しようと努めてきたのだ。
 だが、このまま夜まで我慢した方がいいのだろうか? 朝だろうと夕方だろうと「四日目」に違いはないのに。
「ごめん、もう少ししたら落ち着くから……」
「ラウダ」
「ッ!? にぃさん、て、はなして……」
 情けない声を兄に聞かせたくなんてないのに。ラウダの心を知ってか知らずか、グエルはきつく握る手をゆっくりと解かせ、下から指を差し込むときゅっと絡めた。
 指の腹で乾いた手の甲を撫でるとじわり、内側が熱をもつ。
「…………先にするか?」
 グエルの方が目線が高いのに、上目遣いに見つめられている気がする。ラウダはその場で卒倒しなかった自分を褒めようと思った。

 寝室には午後の太陽が差し込み、一糸纏わぬ二人を照らし出している。なぜかまたしても二人してベッドの上に正座し、膝をつき合わせていた。互いの視線が相手の身体を見つめる。
「確認なんだけど、」
 そう前置きして、ラウダがぽつぽつと話し始めた。
「今日からは性器への愛撫も可能。ただし、あくまでゆっくりと、優しく触れること。触れるか触れないかのぎりぎりを責めて焦らすことも効果的、だって。あと挿入したくてたまらなくなるけどなんとか堪えろ……って、これ、明日まで我慢するんだよね……」
「なかなかきついな」
 二人して真面目な顔をしてしまう。けれどどちらからも「やめようか」と言わないのは、三日間かけて触れ合ってきた気持ち良さも確かに感じているからだろう。
 どちらからともなく手を伸ばし、ベッドの上へ横向きに倒れ込んだ。
「ん……」
 グエルの方から顔を寄せる。受け止めたラウダは薄く唇を開いた。隙間から差し込まれた舌先がちろちろと遊ぶように動く。迎えるように舌を出して絡めると頭の奥がじんと痺れるようだった。
 濡れた音を立てながらキスをする。その合間にラウダは兄の腰へと手を回していた。滑らかな肌をそっと撫でていく。腰から脇腹へ位置をずらしていくと擽ったさにグエルが身を捩った。
(擽ったい場所は性感帯でもあるらしいけど、兄さんはどうなんだろう)
 キスする一方、妙に冷静な思考がそんなことを思い出す。肋骨に沿うようにして撫で続けていると次第にグエルの息が上がっていくのが分かった。
「っふ、ぅ……ん、…らぅだ、しつこい……ッ」
「気持ちいいってこと?」
「――っ、う」
 唇が離れる合間に問いかければ、ぎっと睨まれる。だが執拗に触れるうち、零れる声に甘さが混じり始めた。本当に兄が嫌がっているのなら絶対に止めるが、眇めた瞳は「もっと」と求めるようでラウダはどうしようか迷う。躊躇う様子に気付いたのか、グエルは大きく息を吐いて腕を背中へと回した。強い力でラウダを引き寄せる。
「気持ちいい、から、もっとしていい」
「ッ、うん」
 耳元にそう吹き込まれて、ラウダは背筋がびりびりと粟立つようだった。反対の手を胸元に持っていき柔らかな感触を掴む。
「アッ、ぅん――」
「兄さん、兄さん……」
 まだ平らな胸をやわやわと揉む。赤く色付いた部分には敢えて触れず、その周辺ばかりほんの僅かに手のひらを浮かせて触れていくと、徐々に粒が浮き上がってきた。焦らさず指で押し潰せばびくんと身体が跳ねる。
「んあっ、……ッふ、は……ぁ、ラウダ、そこ、いい……」
「真っ赤になって気持ち良さそう。もっとしてあげるね……ッ、え、あ!?」
 指先で転がす感触が楽しくて弄っていると、突然ラウダは悲鳴をあげた。グエルの片手は弟の下肢へと伸ばされている。
「にぃさ、待っ、」
「ふっ……まだ触れてないぞ?」
 にやりと笑うグエルの手は、確かに性器には触れていない。恥骨の上を指先がゆっくりと辿る。焦らすような動きにラウダは無意識のうちに腰を引きそうになる。けれど両肩を掴んだグエルが勢いをつけてラウダをベッドに押し付ける。
「っ、兄さん……!」
 太股の上に乗り上げたグエルは大きな手のひらをひたりと首筋に当てた。僅かに色の濃くなった肌の上。触れないぎりぎりの位置で身体の中心を辿っていく。下腹部でゆるりと円を描くようにすると、既に反応していたペニスがひくりと頭を擡げた。
「昨日も言ったが、俺もお前を愛したい。ダメか?」
「ダメ……じゃない、けど」
「けど?」
「……僕も兄さんに触れたい。どちらかだけは嫌だ」
 じとりと見上げられて、グエルは面食らったように目を瞬かせた。それなら、と考え込んだ彼が次にした動きに今度はラウダが目を白黒させる番だった。
「これなら二人同時にできると思うんだが……どうだ?」
 ラウダの上から降りたグエルが膝立ちで前後を入れ替える。再び弟の身体を跨ぐと、頭と足が逆の位置になるよう四つん這いになった。所謂シックスナインの体勢は知識としてあるものの実際にするのは初めてで、ラウダは兄の下肢が眼前へと曝け出されている事実に目眩がしそうだ。
 するりと太股に手を這わせる。ひくりと反応した肌はしっとりと汗ばんでいる。鍛えられた筋肉の形を確かめるようにじりじりと真ん中へ辿っていく。徐々にグエルのペニスも兆し始めた。
 すぐにでも口に含みたい欲を抑えながら脚への愛撫を続けていく。ごきゅ、と喉の鳴る音が耳の奥で聞こえた。
 グエルもどうしようかと考えあぐねていたが、弟が動いたことでよし、と一人頷く。シーツについた肘の位置を調整して真ん中に位置すると、先程触れた脚の付け根に舌を這わせた。
「兄さんっ!?」
 悲鳴にも似た叫び声が上がる。だが性器に触れるのがもうしばらく後なだけで、舐めてはいけない訳じゃなかった筈だ。それに目の端で揺れるペニスはしっかり勃ち上がっている。
「んっ、……はぁ」
 敏感な場所に吐息がかかる度、ラウダの腰がびくびくと跳ねるのをグエルは悦びと共に見下ろした。ぐりぐりと溝を抉るように舌先で突いたり、腹からペニスの根元にかけて触れないぎりぎりの位置をなぞったり、弟がどんな反応を返すのかを逐一見守ってしまう。
 直接的な刺激は勿論のこと、兄が自分のそこに顔を埋めている景色が何よりもラウダの劣情を煽った。高潔な兄が、ともすれば性器を咥えんとしているなんて。
「ッ、兄さん」
「うん?」
 苦しげに呼ぶ声が何を求めているかなんて聞かなくても分かる。
「もう触ってもいい?」
 頷く代わりに、グエルは先走りが伝う先端をはくりと呑み込んだ。
「ン――……ッ!」
 口に含んだまま舌先で先端を転がす。その度にびくびくと震えるペニスを手で支えながら、もう片方の手で睾丸を擽る。陰茎を擦ってほしいがそうされたら一瞬で果ててしまいそうで、ラウダはきつく奥歯を噛んだ。目蓋の裏がちかちかと明滅する。焦らされた分、快感が高まるのだと実感してしまった。
「はぁッ、にいさん、だめ、もうだめ、はなして」
「ん……もう少しだけ」
 熱い息を吹きかけられる。それだけでぐるぐると渦巻く精子が昇りそうで奥歯だけでなくシーツもきつく握り締める。太股が震え始めたのを見てグエルは諦めたようにペニスを解放した。中途半端に上り詰めたそこは可哀想なぐらい充血している。
 せめて我慢できる範囲で愛してやろうと、グエルは前方ににじり寄った。細く引き締まった脚を手のひらで辿る。じわりと伝わる温度は宥めるような動きで肌を撫でる。たまに太股のあたりにつんと尖ったものが触れる度、兄が小さく喘ぐのをラウダは懸命に意識から逸らした。今や何をしても何を聞いても動揺してしまいそうだ。
 こうなってはグエルの取り乱すところを見ようと、目の前で揺れているペニスを掴んだ。痛みなどないように優しく、だが快感を集めるように扱いていく。
 ぐぐ、と手の中で膨張していく感覚はラウダを喜ばせた。硬度を増していくペニスを口元に寄せる。裏筋を舌から舐め上げると脚の方から喘ぐ声が聞こえた。嬉しくなって雁首の括れを舌先で苛める。兄がこうされるのを好きだと知っているのは自分だけだ。
 そのまま強い刺激を与えたくなるのを我慢して唇を離す。もう一度手を添えて先端だけに口付ける。僅かに滲む先走りが塩っぱい。つるんとした果実のような感触を唇で味わいながら、空いた手を尻のあわいへと向かわせる。バスルームで彼が準備してきたそこはじわりと濡れていた。アナルの縁を親指でなぞる。
「っふ、ぅ……んん、は……」
「ローション入れてきたの?」
「ん……触ると思って、少し」
 脹ら脛を撫でながらグエルが答える。話している間もラウダの指はアナルの上を何度も滑り、漏れ出た液体がちゅぷと音を立てた。「んっ」と喘いだ拍子に腰を突き出すような形になる。ごくりと唾を飲み込んで、ラウダはゆっくりと指先を埋めていった。
「んぐ、ぅ……」
 慎重に兄の様子を見ながら挿入していく。きつい輪をくぐり抜けてしまえば内側は熱く、柔らかな肉壁がラウダの指を包み込んだ。じっくりと止まったまま馴染むのを待つ。やわやわと蠢く内壁は久しぶりに受け入れた異物を見知ったものだと思い出したらしく、徐々にその形へと拡がっていった。時折ひくんと収縮するのはより太い存在を求めるからだ。二本目、三本目と指を増やしていってもグエルの中は穏やかに受け入れた。
 ふっくらとした肉壁を味わいながらラウダはゆっくりと指に力を入れる。腹の内側辺りを探るように押さえていくとグエルの太股が揺らいだ。その一点の周りを焦らすようにじわりと押していく。
「んっ、ん……っふ、ぅ……んん、は……」
 喘ぐ声に甘さが重なっていく。聞くだけでずくんと腹の奥が熱くなるのを感じながら、ラウダは指先に力を入れた。今度は確実に前立腺を狙って刺激する。がくん、とグエルの肘が崩れ脚の上に体重を感じた。熱い吐息が足先にかかる。
「……も、むりだ、……ッ」
 ギブアップの声。ちゅぽん、と指を引き抜くとラウダは体液を塗り込むようにアナルを撫でた。穏やかな刺激にもグエルの腰が震える。
「兄さん、身体起こせる?」
「ん、ああ」
 手を着いて上体を起こすと、グエルは再びラウダと顔を合わせた。横向きに寝転がり下半身を寄せる。ラウダが二人分のペニスを握り、グエルがその上から自分の手を重ねた。達してしまわないよう慎重に、ゆっくりと扱く。
「は……っ、あ、ラウダ、らぅだ……」
「んっ、兄さん、兄さん、好き、だいすき」
 どちらからともなく唇を寄せる。軽くついばむように何度も何度もキスをして、達する直前きつく根元を握り締めた。 
「昼からこんな……爛れてるね、僕たち」
 長く息を吐き出したラウダが言えば、「悪くないな」とグエルも笑った。

 太陽が空を赤く染める頃合いになると大気の温度が一気に涼しくなった。レースのカーテンがそよりと揺れる。桃色の雲が千切れながら流れていくのをラウダはぼんやりとしながら見つめていた。
(……あ、今の形。兄さんの前髪みたい)
「ラウダ、シャワー空いたぞ」
「…………うん」
「大丈夫か?」
「だいじょうぶ」
 時間をかけて上半身を起こす。グエルが心配そうに見つめているが、ここで互いに触れたらまたベッドに傾れ込むのが分かっているから互いに一定の距離を取ったままでいる。
「あと一日かぁ」
「早いような長いような、だな」
「うん……」
「一旦シャワー浴びてこい。すっきりするぞ」
 ほら、とタオルを投げられて頭にかかる。のそりと手に取るとラウダはバスルームへと向かった。
 水温を一番低く設定してコックを捻る。冷たいシャワーを頭から浴びると確かに悶々と渦巻いていた欲が流されていくようで、ラウダは両手を壁につけたまましばらくそうしていた。
 バスルームから出てTシャツとハーフパンツを身につける。寝室を覗いたがグエルの姿はなく、テラスに足を向けるとパチパチと火の爆ぜる音が聞こえてきた。
「兄さん?」
「テント、最新式の用意してくれたんだな」
 すぐ立てられたよ、と兄の指差す方。ウッドデッキを降りてすぐの開けた場所にカーキ色のパップテントが展開されていた。テントの片方をポールで立てた開放的な形。一回り大きなサイズを選んだから広々と使えそうだ。既にシュラフも中に敷かれている。
「全部やらせちゃってごめん、ありがとう」
「久しぶりに楽しかったから気にするな。それよりチルドルームから野菜取ってきてくれるか?」
「うん」
 あんなに体力を使ったというのに疲れた様子の欠片も見せないグエルに、ラウダは筋トレとランニングを増やそうと密かに決意を固めた。

 島に来てからというもの、夜は寝室にこもるばかりだった二人はキャンピングチェアを天幕の下に移しゆったりと空を見上げた。大量に用意されていた食材を惜しげもなく使った料理は既に二人の胃に収まっている。広々としたテント前面のスペースは二脚並べても余裕があり、足下の焚き火が二人の影を地面に映す。
 揺らめく炎を見つめるグエルとは反対に、ラウダはチェアに背中を預け空を見上げた。赤々と照らされる横顔を見ていたら我慢できなくなりそうだったこともあるが、上空に輝く星々に興味を引かれたからだ。一際輝く赤い星がある。その隣へと並ぶように、青白く光る星があった。ちかちかと瞬く二つの星から目が離せなくなる。まるで吸い込まれるかのように見つめているラウダの横顔を、グエルはそっと盗み見た。
 いつの頃からかストレスがかかると前髪を指先に絡め険しい顔をしていた弟が、今こうして穏やかな顔で――ぼうっとして空を見上げている。貴重な時間を生み出してくれた秘書たちに感謝の念が尽きない。戻ったら順番に休暇を取ってもらおうと考えながら、そういえば冷蔵庫にペリエがあったことを思い出した。弟の邪魔をしないようそっと立ち上がるが、気付かぬ筈もない。
「何か持ってくるの? 僕が行こうか?」
「いや、飲み物取ってくるだけだ。座っててくれ」
 でも、と立ち上がりかけたラウダを片手で制してグエルはウッドデッキの階段を昇っていく。ヴィラの方を見ているとすぐに足音がして、瓶がぶつかる軽やかな音が聞こえた。目の合ったグエルが笑顔を浮かべる。
 受け取ろうと立ちかけたラウダの目の前でそれは起こった。
「うわっ」
「兄さん!」
 大柄なグエルの身体がぐらりと揺れる。最後の段を踏み外したのだと気付いた時には、ラウダの身体は前に動いていた。抱き留めた兄ごと後ろに倒れ込む。下が柔らかい砂地だったのが幸いしてひどく打ち付けることはなかったが、ラウダは左手の違和感に顔を顰めた。見逃さずグエルがその手を取る。
「――ッ」
「捻ったか?」
「……ちょっと変な方に曲がっただけだよ」
「これは?」
「イッ、……大丈夫じゃない、かも……」
 じっと見つめる瞳にラウダはじりじりと視線を下げていく。正直に痛みがあることを言うと、グエルは大股でヴィラの中へ向かいすぐに戻ってきた。手には簡易応急セット。
「腫れていないから骨に異常はないと思うが、念のためだ」
 手を取り湿布を貼ると慣れた手つきで弾性包帯を巻いていく。テープ状になったそれは関節を固定し痛みが出ないようにするものだ。魔法のような手当が済むと鈍い痛みはかなり軽減された。けれど自分の情けなさに歯噛みする。
「……ごめん、兄さん」
「なんで謝る?」
「せっかくのキャンプが台無しだ」
「……っふ、はは」
「兄さん?」
 ラウダは誠心誠意落ち込んでいるというのに、グエルの表情はむしろ先程よりも明るい。
「まだ俺がしてやれることがあるのは嬉しいな」
「兄さん……」
「それに」
「うん?」
「昔はこういうこと、結構あったよな。お前が転んで怪我したのをおんぶして帰ったり」
「……小さい頃のことだろ」
 もう忘れたよ、と言いたかったが、ラウダはよく覚えていた。自分より痛そうに目を細める兄の顔も、背中の温度も。運動が苦手というよりはぼんやりしていて転ぶことが多かったのだが、その度兄に助けられてきた。
 これは? とテーピングした手首をそっと動かされても強い痛みが響くことはない。
「さすがは兄さんだね」
 握って開いて、大丈夫そうなことを確認するとラウダは「ありがとう」と言って立ち上がった。地面に転がっている瓶を拾って兄に手渡す。座って見上げる満天は変わらず美しく瞬いていた。

 後片付けを済ませ、テントのシュラフに並んで転がる。
 道具を洗いながら何かを考え込んでいるようだったグエルに嫌な予感がしていたラウダは、じっと目と耳を凝らしていた。ぽつりと、グエルが口を開く。
「なあラウダ、明日のことだが、無理しなくても」
「嫌だ」
 被せるように言う。きつい声にグエルは二の句を言い淀むものの、怪我をしたら安静にするのは当然のことだとも考えてしまう。それにラウダが手首を痛めたのは自分のせいなのに。
「でもお前、その手じゃあ……」
 できないことはないだろうが、セックスの体勢を考えたら負担を強いてしまいそうでグエルは不安になる。
 兄の心配も理解していたが、ラウダにとって待ち望んだ日が明日なのだ。それを自分の都合で中止にするなんて。悔しさで腸が捩じ切れそうになる。
「骨が折れたわけでもないんだから平気だよ。それより途中でやめたくない」
 いつになく早口な弟に気圧されながら、グエルは思わず口籠もる。それをどう捉えたのかラウダは唇を噛み、喉から絞り出すような声で続けた。
「兄さんが……やめたいならがまん……する、けど……うっ……」
「そうじゃないそうじゃない、泣くな泣くな」
 身体を起こして肩を撫でてやる。
「ないでない」
 唸るように答えたラウダを見下ろして、グエルは再び何かを考えているようだった。

interval

  Side:Lauda


 良かった。本当に良かった。
 兄さんが中止を言い出した時にはどうしようかと思った。
 兄さんにゆっくり休暇を取って欲しかったから当初の目的は達成されているけれど、僕が個人的に兄さんと過ごすこの一週間を楽しみにしていたのは紛れもない真実だったから。
 僕のことを心配してくれたのが嬉しくないといえば嘘になる。だって兄さんが僕のことを考えてくれるのは嬉しいから。
 だけど兄さんは舐めてると思う。四日間も堪えに堪えた僕の欲を。兄さんだってきついはずなのに誰かのためとあったらああやって我慢してしまうんだ。兄さんの懐に入れた者を包み込む優しさは確かに美徳でもあるけれど、その高潔さが時に我慢ならないのは変わらない。
 ただ一つ良かったことは、今の僕には兄さんと話す準備ができているということだ。
 ……まあ、あんな情けない形になるとは自分でも思っていなかったけど。
 テントで泣く僕を慰めてくれた兄さんの手。それなりに身長も近付いたけれど未だに手のひらは兄さんの方が大きくて、でもその手で背中を撫でられるのはすごく気持ち良かった。涼しい夜風と兄さんの体温が心地よくて気付いたら寝ていた気がする。
 泣き疲れて眠るなんて子どもみたいで、でも……嫌じゃなかった。

 Side:Guel


 どうしたものか。
 ラウダは絶対やめたくないらしい。
 無論、それは俺も同じだが。
 ポリネシアンセックスを提案された時は我が弟ながら何を考えているのかとも思ったが、始めてみれば存外悪いものでもなかった。幼い頃から共にいるとはいえ、互いの身体をじっくり見ることなんてないしあまり気にしたこともなかったから、改まって向き合うのは妙に緊張した。それでも俺の知らないところで成長していたラウダには驚かされたし、宝石を扱うように触れられて心が跳ねたのも事実だ。
 セックスは俺にとって会社の跡継ぎを残すための義務だと思っていた。
 物語のように好きなやつと愛を交わすことなんて、お伽噺みたいにふわふわとして掴むことなどできない夢物語だと。
 だからこそ、こうして時間をかけて愛を確かめ合いながら互いに触れる日々はきっとラウダが思う以上に大切な記憶となった。
 まあ、ここまで来て最後までしないのが辛いかと言われたら辛いのも確かだけれど、ラウダが痛みを堪えてするぐらいなら宇宙に戻ってからでもいいと俺は思ったのだ。
 だが。
 泣いてない、と訴えるラウダの声は涙声で、くしゃりと撫でた頭から頬へ手のひらを辿らせていくと濡れた感触があった。誤魔化すように背中を撫でてやるうちに弟の呼吸は規則的になっていったが、俺にはなかなか睡魔が訪れなかった。
 さてどうしたものか。
 一つ、ラウダも俺も実のところ中止する気はない。
 二つ、ラウダの左手に負荷がかかることはしたくない。これは俺の希望。
 三つ、二人ともそれなりに体幹や体力がある。
 だとするならば。
 頼りない数の知識と想像力を総動員して明日の計画を考えるうちに、いつしか俺も眠りに落ちていた。

Day 5

 翌朝は二人揃って目が覚めた。グエルの腕の中で身動ぎながら、ラウダは昨晩のことを思い出し穴を掘って入りたくなる。子どもみたいに駄々をこねてしまった。呆れられてないかとそろそろ顔を上げれば、じっと見つめている蒼に出合う。
「兄さん……」
「ラウダ、今日のことだが」
「やめないから」
「それは分かってる」
「え?」
 え? ともう一度声を上げる。呆けた顔が面白かったのか、グエルは表情を崩した。
「ただし、お前に負担のない形でならって条件付きだ。いいか?」
「そんなの勿論!」
 いいに決まってる。がばっと身体を起こしたラウダは勢いのままグエルに抱きついた。後先考えずにぎゅっと抱き締め「痛」と叫ぶ。思いきり力を入れた左手首はしっかり痛みが残っている。
「ぶっ」
「いいから落ち着け」
 鼻を摘ままれ、すごすごとシュラフに座り込む。
「まずはきちんと朝食をとる」
「うん」
「それと、今日の予定はこれ以外に入れない」
「っ、うん」
「それぞれ準備をする」
「兄さんの準備手伝いたい」
「今回は我慢しろ」
「……うん」
「それから、体位についてはお前の負担がないものに限る」
「……」
 黙り込むラウダに、グエルはじり、と身を引く。何か問題があるだろうか。
「兄さん」
「何だ」
「あの後ずっと考えてくれたの?」
 目を輝かせて迫ってくるラウダに、グエルは居ても立ってもいられず「とにかく!」と顔を押さえる。
「まずは起きて準備するぞ」
「うん!」
 起き抜けとは別人のような顔をして、ラウダはテントから外に出た。

 全ての準備を終えて寝室に戻る頃には太陽は南中に昇っていた。
 サイドボードにローションやスキンを置き、衣服をベッドサイドにまとめて脱ぐ。明るい部屋で互いの裸体を見るのは数回目だが、その度に美しいと思う。
 ベッドに上がり抱き合う。キスを交わして身体に触れ合えば、僅かな刺激にも快感が走った。
 どこに触れても、触れられても気持ちいい。四日間をかけて相手の身体で触れていないところがないほどに愛し合ってきたのだ。じっくりと性感を高め合っていくのは心を繋げるのにも似ていて二人を温かな気持ちにさせた。
 充分に後ろを解しグエルは俯せに寝る。ラウダは膝立ちで太股の辺りを跨ぐと、手早くスキンを被せた。ローションを塗り込み、右手で身体を支えながらゆっくりと腰を落としていく。左手が使えない弟の代わりに、グエルは自身の両手で尻たぶを掴み外へと拡げた。
(視界の暴力だよ、兄さん……!)
「んっ……これでいけるか……?」
 ペニスの先端をアナルへと宛がう。ローションでぐっしょりと濡れたそこはひくひくと開閉して切っ先を食んだ。けれどきつい輪をくぐり抜けようとすると押し返されてしまい、ぬるぬるとアナルの上を滑ってしまう。意図していないのだろうが焦らすような動きにグエルは短く息を詰めた。早く中に欲しいと、そんな衝動が自分の内にあったことにひっそりと驚く。
 ラウダは一度身体を起こすと、右手で自身のペニスを掴んだ。兄の拡げた箇所へ先端を押し付ける。指先を一緒に入れるようにして押し込むと、くぷりと音がして雁首が潜り込んだ。
「ふっ……ぅ、ン……」
「ぐ、う……兄さん、兄さん……っ」
 じりじりと腰を押し進めていく。濡れた肉襞が待ち望んだ歓喜に震えた。この瞬間にも吐精しそうになるのを堪えながらラウダは襞を掻き分け奥へと侵入する。正常位よりも奥に潜り込む感覚にグエルが身震いすると、その振動すらラウダを昂奮させた。
 根元まで収め、肌と肌がぴたりとくっつく。いつもなら馴染むのを待ってゆっくりと抽挿を始めるのだが、ポリネシアンセックスのルールはここから三十分動いてはいけないというものだった。脳内のルールブックを捲りながらラウダは低く唸る。
(このまま、兄さんの中で、三十分。……もつかな)
 見下ろした兄の背は真っ赤に染まっていて、ふつふつと浮かぶ汗の玉が眩しい。不意にどんな味がするのか気になったラウダは身を屈めるとうなじを舐めた。滑る舌の感触にグエルが喘ぐ。
「……っ動かない約束、だろ」
「ごめん、つい」
 ちゃんと我慢する、と言ってラウダはグエルの上に重なるように身を倒した。CEOとして忙しくする間も身体を動かしているグエルはびくともしない。シーツの上に投げ出された左手に自らの手を重ね、指を絡めていく。
「……左手」
「手首を捻らなければ大丈夫だよ」
 皮膚越しに感じる兄の鼓動は速く、それはラウダも同じだった。細く長く息を吐く。短く切り揃えた後ろ髪に息がかかったのかグエルが小さく声を漏らした。
「ね……、兄さんの中が僕の形になっていくの、分かる?」
 動けない間にもグエルの内側はじわりじわりとその形を変えていく。徐々に馴染んでゆく内壁はラウダの形を覚えるように蠢いた。ぴたりと、たった一つの正しい組み合わせであるかのように嵌まっていく感覚はグエルの中のスイッチを押したかのようだった。
「――んあっ、ふ、う……!」
 突如背中を弾ませ、シーツを掴む手に力が入る。ぎゅうっときつく皺が寄るまで握り締めると内壁が急速に収縮した。より奥へと引き込む動きにラウダは目を見張る。
「う……ッ、兄さん、なに……ッん、」
「はっ、ア……!」
 びくびくと身体を震わせる兄の上でラウダもまたしがみつくように喘いだ。こんなふうに兄がイくところを見たことがない。まだ少しも動いていないのに。
 ただ、どこか冷静な頭で調べた時の内容を思い出す。
『この段階でも、快感の波が押し寄せイキっぱなしになることがありますし、ドライオーガズムのような深い快感を得られる方もいるようです。』
 確かそんなことを書いてあった。イキっぱなしになるということはこの波を何度も味わうということだ。身体を繋げてからまだ十分も経っていない。サイドボードの表示を横目で見ながら、ラウダは深く深く息を吐いた。

 
 三十分後、溶けた表情でシーツに横たわるグエルを見下ろしながらラウダはのそのそと身体を起こした。右手をグエルの腰に置き自分の上体を支える。
 文字通り何度も波が打ち寄せるように快楽の波に浚われ、よくぞ暴発しなかったなと思う。二人とも射精はしていないものの身体の奥底から湧き上がるオーガズムに思考が融けるようだった。
「……動くね」
「ああ……」
 ぱたぱたと顎から伝う汗が落ちるだけでグエルはひくりと身を震わせる。それはこれから得る快感への期待でもあるように見えた。
「ん……」
 たっぷりと時間をかけて腰を引く。内側の襞が引き留めるように吸い付いてくる動きにラウダの視界がちかちかする。先端だけを含んだ状態まで引き抜くと、ローションのボトルをぐっと押し込んだ。ぶちゅる、と音を立てて透明な液体が零れる。痛みがないように陰茎へ塗りたくると、ラウダは再び腰を前に進めた。ぐちゅ、ぷちゅ、と水音を立ててペニスが埋まっていく。
「ア……は、ぁ……」
 あああ、と開きっぱなしの口からグエルは言葉にならない声を吐き出した。ラウダが抜き差しする度に壊れた楽器のように声が漏れてしまう。
 これまでしてきたセックスのように激しく交わるのも気持ちよかったが、五日間かけて互いの肌に触れてきたことで繋がっている部分だけではない、全身で弟の愛を感じていた。相手を大切な存在だと認識しながら過ごしてきた時間が、ゆったりとした交歓だからこそ思い出される。
 背後に、そして身の内で感じる熱に安堵感を抱き、グエルは自然と笑みを浮かべていた。
 とはいえ散々ドライオーガズムを得た身体は、生真面目な程にゆっくりと与えられる快感を些か物足りなく感じていた。こんなに敏感になった中を勢いよく擦られたらどうなってしまうのだろうと今までにない期待が湧き上がる。
 それに、一時間近く繋がっているというのに顔も見ていない。
「んっ……ラウダ、一回止ま、――んあっ」
「ごめん兄さん、なに」
 間に合わず腰を打ち付けられ喘ぐと、焦ったようにラウダが動きを止めた。きゅうっと引き絞る動きに眉を顰めて耐える。
 グエルは肘をついて上半身を捻った。
(こんな顔してたのか……)
 兄である自分の前では滅多に見せたがらないむき出しの欲望に、求められているのだと何度も実感してしまう。
 これが欲しい、と。強くそう思った。
「顔、見たい」
「かお……」
「一度抜いてくれ、俺が乗る」
「はっ?」
 え、え? と慌てるラウダの下から抜け出し右肩を軽く押した。とすん、とベッドの上に座り込んだラウダはまだ困ったように兄を見上げている。グエルは額の汗を拭った。息を吐いて膝立ちのままにじり寄る。
「兄さん!?」
 勃ち上がったままのペニスへ後ろ手に指を添えると、グエルは自らアナルへと先端を飲み込ませていった。とんでもない光景にラウダは言葉を失う。そりゃあいつかは対面座位もしてみたいと思っていたが、まさかこんなに早く実現するなんて。
 けれど敏感な場所を包み込む感触が夢ではないことを告げていた。覚えた形に内壁が拡がっていく。
「ン……は、ぁ…………ん――」
 瞳を閉じ、気持ちよさそうに仰け反るグエルの胸元が目の前に迫る。考える間もなくラウダは兄の背中を引き寄せた。尖った粒を口の中に含むとそれだけで手の中の身体が跳ねる。
「あッ、は……きもちぃ……んん、ぅ……」
「……んぁ、兄さん……っ」
 ゆっくり押し付けるだけだったラウダに焦れたのか、グエルは腰を前後に揺する。誘うようにうなじから後頭部へと指を差し入れると汗ばんだ肌が触れた。
「もっと動いていいんだぞ」
「でも……っ」
 ここで動いたらそれこそ一瞬で果ててしまいそうで躊躇ってしまう。
 だが、屈んだグエルが耳を愛撫しながら囁く。
「ラウダ、奥に欲しい」
 その言葉に、ラウダは目の前が赤く染まった。両手でグエルの腰を抱き寄せると下へと引きずり下ろす。次いで奥へ奥へと腰を押し込むと柔らかく受け止めていたそこが激しく蠢動した。
 左手に走る痛みも今のラウダには気にならない。皮膚が沈むほどきつく掴む。
「ひっ、ィあ、ア――……!」
「兄さん、兄さんっ……ッ!」
 最初の一突きでグエルは精を吐き出したようだった。
「あっ、あっ、は、ぅあ、あッ」
 開けたまま塞がらない口はひたすらに嬌声を垂れ流していく。最早自分の声を気にする余裕などないようで、それがまたラウダを煽った。
 必死で勢いを抑えながらも下からねっとりと腰を押し付ける度、断続的にグエルの先端からは精液が零れて互いの腹を汚す。そのうちにとろとろと粘度の低い液体が溢れ始め、ペニスを伝いシーツへと染みを作った。その間もラウダの動きは止まることなく、グエルは頭を掻き抱く。
「んうっ、ひ、あ、らうだ、おく、……っイイ、あ……!」
 ひときわ深く抉る。その瞬間、グエルの肉襞が歓喜しすべてを搾り取ろうと収縮した。
「ぐっ、ウ……――っ!」
 耐えきれず兄の身体を抱き締める。びくびくと腰が跳ねる度に皮膜の中へと精が吐き出された。
 射精はすぐに終わらず二度、三度と続いていく。腕の中でグエルもまた達していたようで、繋がっている部分が蠢くのを感じていた。
 しばらく抱き合ったまま、二人は互いの肩や胸へと頭を預けた。激しく動いてはいないはずなのに、全速力で走った時のように苦しい。視界は潤んでぼやけているし、自分の吐く息すらどこか遠くに聞こえている。それでも、手に触れる熱は確かにそこにある。
 快感の海を揺蕩いながらゆるゆると顔を上げると、どちらからともなく唇を合わせた。情欲を呼び覚ますものではなく、相手がそこにいることを確かめるような触れるだけのキス。
 角度を変え、視線を交えながら口付けていく。
 そうしているうちに、グエルの肩がひくりと動いた。中で再び兆していく存在に唇を舐める。
「ゆっくりならいい……か?」
 もう一回しても、と期待の焔が瞳の奥に揺らぐ。
 応えるように軽く突き上げると、甘い声がラウダの耳朶に響いた。

epilogue

 さらりと額を撫でる風にラウダはそっと目を開いた。
 前髪が細い束になってさらさらと揺れる。くすぐったさに「んん」とむずかるような声が漏れ、数回、瞼をしばたかせた。寝室に差し込む光は眩しく足下を照らしているが、半分ほど閉めた遮光カーテンが顔の辺りに影を作ってくれている。
 ふと隣を見ると、今朝はそこに温もりがあった。前髪は柔らかく垂れ印象的な眉を隠している。瞳を閉じて静かに眠る姿は幾分かグエルを幼く見せた。ラウダはほんの僅かでも兄の眠りを妨げないよう、ただ黙って見つめている。静謐な時間がそこにはあった。
「――ん、」
 ふるりと目蓋が震える。
 数秒待って、ようやくラウダの好きな蒼が瞬いた。
「おはよう、兄さん」
「……めずらしいな」
 お前の方が早いなんて、と言外に滲むのを苦笑しながら聞く。このまま二人でシーツの海に再び溺れるのも悪くないが、今日のラウダには目的があった。疲れてるでしょう、と前髪をゆっくり梳く。
「もう少し寝てて、兄さん」
 そう静かに伝えると手のひらを目元に翳す。穏やかな声とじんわり伝わってくる温もりに安心したのか、グエルは長く息を吐くと再び夢の縁に降り立った。
 ラウダは寝顔を存分に見つめてから、兄を起こさないよう慎重にベッドを降りる。穏やかな寝息に言い知れぬ幸福を感じながら、そっと寝室の扉を閉めた。

 顔を洗ってからキッチンへと向かったラウダは慣れた手つきで食材を用意していく。時計を見ると朝と昼の間を示していた。ブランチにはぴったりの時刻だ。
 小麦粉、ベーキングパウダー、砂糖、卵、ミルク、ベーコン、レタス、ミニトマト、それからオレンジ。
 まずはレタスを洗ってから水気を取り、一口サイズに千切っていく。ミニトマトもくし形に切り、小さめのサラダボウルを二つ出し盛り付けていく。そう言えばオニオンフレークがあったなと棚から取り出し最後にふりかける。上からオイルドレッシングをかけてテーブルに置くと、次の品に取りかかった。
 奥のコンロに小さめのフライパンをセットし、刻んだベーコンをまとめて入れておく。それから手前にはパンケーキ用のフライパンを二つセットし、材料の計量に移る。昨日あれだけ消費したのなら厚めのものを二枚重ねてもいいだろうか。三種類の粉をふるいながらうっかり思い出してしまった兄の姿はあまりに鮮明で、ラウダは頭を振って思考から追い出した。このまま作っていたら絶対に焦がす。
 きれいに混ざったボウルの中へ卵を二つ割り入れ、ミルクを注ぐ。泡立て器のカシャカシャと鳴る音が爽やかに響いた。
 二枚のフライパンに火を入れる。少し温度を上げた後、一度濡れた布巾で全体を冷ましてから再びセットする。高いところから材料を流し入れるとゆるやかに円を描いていく。もう一枚も同様にしてしばらく待つ。先程使った道具を洗いながら視線だけは時折フライパンに向けると、ふつふつと小さな音を立てて表面に泡が弾けていった。
 甘い香りが立ち上る頃合いを見計らってパンケーキを返す。均等なきつね色に焼けているのを見てラウダは満足げに頷いた。また少し時間がかかるからとテーブルクロスの上にカトラリーを並べていく。最後に乗せるバターを室温に戻しておこうかと冷蔵庫から取り出しキューブ型に切り分ける。そうしているうちに香りが強くなり、中まで焼けたことを確認すると火を止めた。キャビネットから白磁の皿を二枚用意し、一枚ずつ焼けたパンケーキを乗せると白地にきつね色がよく映えている。二枚目の準備をしながら、ベーコンのフライパンにも火をつけた。
 油の弾ける音と二つの香りに空腹感が刺激される。空になったボウルをシンクへ置くとラウダはハンドジューサーを探した。フロアキャビネットをいくつか開いてみると目当ての物が見つかる。半分に切ったオレンジを入れ、ガラスポットに絞っていく。タンブラーグラスに注ぐとサラダボウルの隣へと置いた。程良く焦げたベーコンの匂いが漂ってくる。フライパンを片手にサラダの上へと少しずつ盛っていけば完成は間近だった。
 二枚重ねたパンケーキを中央に置き、出来映えを確認する。きれいに焼けたものは勿論兄の方へと。
 よし、と一人頷いたラウダは兄を起こすべく寝室へと向かった。途中、自分の荷物から小さなケースを持ち出すのも忘れない。

 音を立てないように室内へと入る。グエルはまだ眠っているようで、仰向けになった胸が規則的に上下している。カーテンをそうっと開けば、高くなりつつある太陽の光が室内へと隙間なく差し込んだ。
 ベッドサイドに立ち、ラウダはそっとグエルの左手を取った。薬指を柔らかく撫でる。傍らに置かれた小箱にはしろがね色に輝く二本のリングが並び、ラウダは僅かに大きなサイズのリングを取ると兄の薬指に嵌めた。表面を撫でればつるりと冷たい感触が指に馴染む。それは以前からそこにあるのが当然といった表情で収まっていた。
「……兄さん」
 耳に唇を寄せて囁く。ぴくっと肩が揺れたのを見て、ラウダはもう一度声をかける。
「兄さん、起きて。食事にしよう」
「んん……」
 眉間に皺が寄り、長い手足が大きく伸びる。猫が伸びをするような動きにこっそり笑いながら、ラウダの心臓はばくばくと音を立てていた。こんなふうに兄にサプライズを仕掛けたことなんて一度もないのだから。
「いま、何時だ……?」
 眩しさに手を翳したグエルは、視界の端に何かが煌めくのを見留めると動きを止めた。
「……」
「誕生日おめでとう、兄さん」
「誕生日……だったか」
 ラウダの予想通り、兄は自分の誕生日を忘れていたようだった。本当に驚いている時の顔をして、薬指に光る輪を見つめ、次いで弟の顔を見、再び視線を指へと戻す。うう、と呻いて両手で顔を覆うグエルにラウダは何か失敗したかと息が詰まりそうな思いがした。心臓が皮膚を突き破って出てきそうだ。
 だが、まだ伝えていない。憶測だけで物事を考えるのはやめた筈だ。
「兄さん。これは誕生日のお祝いだけじゃないんだ。聞いてくれる?」
 見下ろすラウダの瞳が決意と不安とに揺れるのを見て、グエルは勢いよく身体を起こした。
 真剣に向き合わないのは失礼だと、そう感じたから。
「ああ、聞くよ」
「家族として兄さんを愛する気持ちに変わりはない。きっとそれは僕の命が終わる瞬間まで、ずっと。会社のためもあって名字は揃えたけれど、これは僕個人の誓いなんだ。兄さんの傍で、ずっとあなたを支えたい。支えさせて」
 一つ一つ、言葉の輪郭を確かめるようにラウダが紡いでいく。それは指輪と同じぐらい違和感なく、グエルの空洞を埋めていった。
 琥珀色の瞳に光が宿る。
「グエル・ジェターク、僕と結婚してください」
「……ラウダ」
 目を見張るグエルは何か別の驚きも抱えているようだった。応えを待つラウダは落ち着かず視線を彷徨わせる。
「ちょっと待っててくれ」
「えっ、兄さん?」
 ベッドから飛び降りたグエルは寝室を出るとすぐさま戻ってきた。正座して固まっているラウダの目の前に腰を下ろす。
「実はな、俺も同じことを考えていた」
「え?」
 ラウダの頭上にクエスチョンマークが飛び交う。今、兄は、何と言った?
「お前に先を越されるとは思わなくて」
 照れたように瞳を伏せ、グエルは手の中に持っていたケースをぱかりと開いた。
 黄金色に光る細身のリングが一対。
「ずっと一人で立つことが成長だと思っていた俺にそうじゃないと教えてくれたのは……ラウダ、お前だ。弱音を受け止めてもらえることがこんなにも安心できることだなんて、お前が向き合ってくれなきゃ知らないままだった」
 兄の言葉に息を吞む。
「これからもずっと一緒にいてくれるか……?」
 そう言ってから、グエルは「違うな」と呟き、もう一度ラウダの瞳を見つめた。
「俺は……ラウダ。お前に、ずっと隣にいてほしい」
「っそんなの勿論だよ! じゃあ兄さん、返事は」
「勿論、イエスだ」
 安堵と歓喜が一気に体中を駆け巡る。ラウダが勢いのままグエルに抱きつくとしっかりと受け止められた。ぎゅうぎゅうとお互いの身体を抱き締める。まるでそれは失った欠片を二度と離すまいとする幼子のようで、暖かな陽光がいつまでも二人を包んでいた。

 迎えのチャーター機が来るまであと数分だろうか。
 窓から桟橋が見えるからとカウチに二人並んで座る。グエルの肩に頭を預けながら手を繋いで、指を絡めて。時折握る角度を変えれば指に固い感触がぶつかり、グエルはふにゃりと表情を緩めた。互いの薬指には金と銀、二本のリングが重なっている。
(この兄さんを他の人に見られるのは嫌だな……)
 ラウダがぼんやりと遠くの海を見つめながらそんなことを思っていると、徐にグエルが立ち上がった。手は繋いだまま見上げればそこにいるのは「いつも通り」のグエル・ジェタークだ。
「プロペラの音が聞こえた。行くぞ、ラウダ」
「……うん」
 二人きりの時間はもう終わりだ。寂しくもあるが、この瞬間背筋が伸びるグエルを格好いいと、好きだと思う。荷物を手に扉を閉めると、それぞれのバッグに結んだミサンガがふわりと揺れた。
「……また来よう。二人で」
 二人で、また。
 いつかの約束を胸に、二人は懐かしい扉を後にした。

 軌道エレベーターに搭乗したところでグエルは端末の電源を入れる。明日からはまた忙しい日々が始まるのだ。
 と、立て続けにメッセージの通知が画面を埋めていく。
「うおっ」
「兄さん? どうしたの?」
「いや、カミルたちから連絡が……スレッタからも?」
 あまりの量にタイトルだけをちらっと見ていくが、どれも「おめでとう」「お幸せに」と似たようなものばかりだ。
「ああ、僕がペトラたちに連絡したからかな」
 首を傾げるグエルにラウダは一枚の画像を見せた。
 島を出る前に二人して撮った指輪の写真。
「まさか」
「うん。ずっと相談に乗ってもらってたから、さっき成功したよって」
 写真送ってあげたよ、と悪びれもなく言う弟にグエルは「ああああ」と溜息を漏らした。秘密にしておくことでもないが、この分ではしばらくの間あちこちで格好の話題になるのだろう。
「兄さん、ごめん。嫌だった……?」
 見つめる弟の頭に垂れた犬の耳が見えて、グエルは言葉に詰まる。最近気付いたことだが、弟はこうすれば自分が強く出られないことを理解してやっている。おそらく。そしてそれは紛れもない事実だった。
「いや、いい。そのうち話すことだしな……ちょっと驚いただけだ」
 それにしてもカミルたちはともかく、ラウダがスレッタと親しいのは驚きだった。あまり好いていないようだったから。
「スレッタ・マーキュリーにもミオリネにも僕からは言ってないよ。大方、地球寮の誰かから伝わったんだろ」
「心を読むな……」
 矢継ぎ早に届く祝福を二人で見ながら笑い合う。
 この日々が永く続くことを願いながら。
 職務用の端末が秘書室からの祝福で鳴り響くのは、それから数分後のことだった。

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