地球に行くぞと父が言い出したのは何故だったのか、皆目見当がつかない。理由は分からないものの日頃会社のことばかりだった父が三人で出かけようと言ってくれたことが嬉しくて、その夜グエルはろくに眠れなかった。
初めて降り立った地球はむっとした熱気を孕んでいてお世辞にも快適とは言い難い。それでも、隣で父が手を引いてくれるならグエルにとっては楽園となる。もう片方の手は一回りちいさな手がきゅっと心細げにつかんでいた。安心させるように強く握り返せば弟の瞳に光が宿る。それを見るのがグエルはいっとう好きだった。
迎えの車を降りて最初に向かった先は「海」だ。いつもよりゆっくりと歩くヴィムを息子たちが小走りで追いかける。アーカイブで見るよりもずっとずっと広く果てのない海原は、二人から束の間言葉を吸い取った。
「これ、どこまで続いてるんだ……?」
「地球」については座学で学んだはずだが、実際目の前にするとその疑問が浮かんでくる。いつもならすぐに答えてくれるラウダが黙っているのに気付いたグエルは、首を傾げて隣を見た。弟は口を小さく開けたまま水面を見つめている。
「ラウダ?」
「……兄さんみたいだ」
ぽつりと零した言葉にさらにグエルは角度を深くする。けれどラウダ自身、あやふやな形をした理由を言語化するのが難しいようで困ったように眉尻を下げるのを見て「まあいっか」と笑った。からりとした笑顔にラウダはほっと息を吐く。兄をがっかりさせなくて良かった、というように。
「せっかくだ。入ってみるか?」
「いいの!?」
「兄さん、靴が濡れるよ」
父の言葉に今にも走り出しそうなグエルは、弟の言葉ではっと思いとどまると勢いよく靴と靴下を脱いだ。放り投げることはせず砂浜の上に揃えて置く。
「ラウダ、行くぞ!」
「っ、うん」
差し出された手をぎゅっとつかむ。
「父さんも!」
見ているつもりだったヴィムも苦笑しながらスラックスの裾を捲る。
裸足で踏み出した砂浜はじりじりと足の裏を焼いたがどこか心地よく、気付けば水飛沫を浴びながら三人笑い合っていた。
「あ、」
唐突に、グエルが声を上げた。屋敷の中を二人で片付けていた時のこと。
「どうしたの、兄さん?」
覚えてるか、と兄が見せてきたのはラウダがジェタークの家に引き取られてしばらく経つ頃、父ヴィムの思いつきで地球へ休暇に出かけた時に撮った写真だ。全身ずぶ濡れのヴィムが二人の肩を抱き豪快に笑っている。あの後別荘に戻ったら年かさのハウスメイドに散々小言を言われたのだ。ヴィムが。
「懐かしいな……」
そうだねと返しつつ、こうしてグエルが昔の写真を見ても穏やかな目をしていられるようになったことにどこかほっとしている自分がいる。続けて「あ」とグエルが言うので思わず返事の声が上ずってしまった。何か引っかかったのだろうか。
「そういえば、あの時ラウダが言ったことの意味って何だったんだ?」
「僕が?」
「俺みたいだって言っただろ」
海を見た時にさ、とこちらを見る兄の瞳が明かりを反射して煌めく。ふと、ラウダの中にあの日の記憶が蘇ってきた。
――果てのない水平線。分かたれた空の蒼と海の碧。陽光を受けて反射する水面。どこまでも広く何もかもを受け止めるような海原。
「なんていうか、全部が?」
「全部ぅ?」
「最初は空を映した海の色が兄さんの眼の色と同じだなと思って。まあ空を映してるわけじゃなくて光の反射の問題なんだけど……それでずっと見ていたら吸い込まれそうなところも、ちっぽけな僕を抱きしめてくれそうなところも、兄さんみたいだなって。あの頃はうまく言葉にできなかったけど今なら分かる気がするな」
「……」
「兄さん?」
「おまえ、言ってて恥ずかしくないか……?」
じとりと見上げる目元が薄く朱に染まっている。触れたら怒るだろうか。そう思ったことなどおくびにも出さずラウダはしれっと応える。
「兄さんが聞いたんだろ」
そうだけど、と口ごもるところがまた可愛く見えてラウダはちいさく笑う。今夜はゆっくり兄の魅力を囁くとしよう。そう決めて、きりのいいところまで終わらせるべく再び手を動かした。
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